八重の桜 日向ユキ 剛力彩芽 ネタバレ
先の剛力彩芽のことが、尾を引いているので、とことん書いてみたくなった。
幕末と明治維新、そして昭和初期までの長い歳月を踏まえれば...。
(またまた長々となってしまうこととなり、ドウモスミマセン!!!)
日向ユキは、1851(嘉永4)年5月15日、米代三ノ丁(現・福島県会津若松市米代二丁目)の日向家の次女として生まれ、8人兄弟の3番目。
父・左衛門は知行400石の上級武士。
母・ちかは2男2女を産み、ユキが3歳の頃、32歳の若さで病死。
翌年、継母・秀が後妻入りして、新たに弟4人と妹1人が増えたこともあり、ユキは幼い弟妹を背負ってお守りをしてきた。
父は元々組頭だったが、町奉行の堕落ぶりに憤って、自ら格下の町奉行に志願するくらいの、曲がったことが大嫌いな正義漢。
それゆえ、礼儀作法に厳しく、何か言いつけられる時は、両手をきちんと畳につき、頭を下げて聞かなければならなかったという。
後妻の秀にも「実子にも義理の子にも差別をしてはならない」と、厳しく言い渡していたこともあり、ユキは「かわいがられもせず、憎まれもせずに育った」という。
日向家は、山本家の北隣に接し、両家の間には垣根の仕切り。
家庭の空気になじめなかったユキは、東隣の高木家で過ごすことが多かった。
高木家では、当主の小十郎が早くに亡くなり、目の不自由なおばあさんと夫人のかつ、長女・時尾(貫地谷しほり)、長男・盛之輔と女子供だけの4人暮らし。ユキは高木家でよく食事したり、時には泊まった。
10歳から12,3歳まで高木のおばあさんから針仕事を習い、同じ頃に針仕事を習いに来た山本八重(綾瀬はるか)とも親しくなる。
戊辰戦争勃発は、ユキが17歳の時。
先に鶴ヶ城内に入った10歳くらいの弟・新三郎から遅れてしまい入れず、日向家も焼かれてしまったため、祖母、継母、弟2人、妹と一緒に長いことさまよった末に、鶴ヶ城より2km南の郊外・御山在(現・福島県会津若松市門田町大字御山)の肝煎(世話人)・伝吉という百姓家にたどり着き、居候の身として温かく受け入れられることに。
戦争が終わって、父・左衛門と兄・新太郎の消息を聞いて回ったところ、ともに重傷を負って自刃。
異母弟・新三郎は、籠城中にチフスにかかって衰弱。
後のユキの述懐によれば、「あまりにもひどく、悲しいことが重なって、思い出しただけでも涙が出てしまい、とても話す気になれなかった」という悲惨さ。
以後のユキたちは、帰る家のないため、稲刈りなどを手伝いながら、1年半ほど御山在にとどまった。
1869(明治2)年11月、会津藩松平家は、松平容保(綾野剛)の生まれたばかりの実子・慶三郎のちの容大(かたはる)を当主に家名再興が許され、旧南部領の斗南藩を賜った。
移住は、翌年1870(明治3)年4月から開始。旧会津藩士とその家族17,300人余りが移ったとされる。
ユキの家族も入っており、250人ずつが一団となり、会津から野辺地(現・青森県上北郡野辺地町)まで20日間かけて移動。
足がマメだらけになるほどの長い道中で、「言うに言われぬ苦しみ」そのものだったという。
やっとたどり着いた下北半島の極寒の地・斗南藩は、公称3万石。 しかし、実質7千石。
鋤鍬を持ったことのない武士やその家族たちが、不毛の土地を開墾することに。
移封とは名ばかりで、流刑そのものだったという。
特に冬の間は、寒さと飢えと栄養失調で、多くの老人と子どもが命を落とし、犬の死体を食べたものさえいたらしく...。
多くは飢えをしのぐために、山菜や野草を食べていたために、地元の心ない人々からは、
「会津のゲダガ(毛虫を意味する下北地方の方言)」
ユキたちの家族は、当初、反物や雑貨を売る柴崎屋の2階を間借りし、しばらくして船着場を営む人の家へ移ることに。
おもに針仕事や藁鞋(じんべ)づくりを一日中行い、穴開き銭を30文ほど貰ったという。
藩から支給される1人1日3合の扶持米(玄米)は、なるべく残すように努め、その米を売っては、布団や衣類など厳しい冬を乗り越えるための生活必需品を買っていたという。
土地を買っての開墾は、4坪ぐらいの土地を3人がかりで耕して、4升の蕎麦の種を蒔いたものの、花すら咲かなかったといい...。
このような旧会津藩士への過酷な仕打ちは、桂小五郎改め木戸孝允(及川光博)はじめとする長州閥の意向だったといわれているらしく。
特にかつての長州藩は、会津藩配下の新撰組に、池田屋事件などで多くの同胞を殺され、禁門の変(蛤御門の変)でも、京都守護職配下の会津藩より散々な目に遭わされたことから、憎しみは尋常ではなかったという。
やがて戊辰戦争でその仇を討とうとしたが、参戦に遅れて目的を果たせなかったために、極寒の斗南への流刑という形での報復に走ったとか...。
しかし、それでも、ユキの家族の場合は、稀にみる不幸中の幸いとやらで、港にイワシ船が着くと「会津様にあげる」とたくさん分けてもらったことから、町の人々の親切による恩義を忘れなかったという。
折しも、継母が針仕事を請け負っていた医者の青森引っ越しに伴い、一家で青森へ移住して、1年ほど過ごすことになって...。
1872(明治5)年2月、運命の転機となったんだろうな...。
北海道開拓使(後の道庁)の大主典(だいさかん)として函館に赴任していた雑賀重村から、妻とともに病気になってしまったから、手伝いに来てほしいと頼まれて...。
雑賀は会津藩士・一ノ瀬郷助の子。
榎本釜次郎改め榎本武揚(山口馬木也)とともに函館戦争で新政府軍相手に果敢に戦って降伏。
やがて斗南を経てから紆余曲折、北海道開拓使へ。
妻の浅は、会津藩家老・簗瀬三佐衛門の娘で、ユキと面識あり。
ユキは雑賀屋で懸命に働き評判も上々。
雑賀屋へは、札幌勤務の開拓使官史で旧薩摩藩士の内藤兼備(後の北海道庁土木課長)が、函館出張の際に立ち寄っていて、ユキと出逢うことに。
兼備(かねとも)は、戊辰戦争従軍の折、鶴ヶ城籠城戦における会津の女性たちの働きぶりに強く心を揺さぶられて以来、将来は会津の女性を嫁にすることを強く希望。
兼備との縁談の申し出を受けた当初のユキは、父や兄の仇敵となる薩摩出身の男性との結婚に難色を示したものの、周囲からの説得と兼備の熱意に心を揺さぶられて、結婚に同意する。
1872(明治5)年10月25日、函館を発ったユキは、9日目の11月3日に札幌へ到着。
兼備とユキの結婚は、薩摩と会津の恩讐を超越した"結婚第一号"。
この時、兼備は30歳、ユキは21歳。
ユキは終生札幌で暮らすこととなり、1887(明治20)年7月14日、新島襄(オダギリジョー)と結婚した八重と19年ぶりに感動の再会。
そして、長きにわたって家族ぐるみのつきあいをする間柄に。
長く時は流れて、晩年の日向ユキは、8人兄弟の中で最も長生きして、1944(昭和19)年に死去。
享年94歳。
新島八重が享年87歳で亡くなった1932(昭和7)年6月14日から、12年後のこと。
綾瀬はるか演じる八重が主人公である以上、特に明治時代以降は、京都の八重と山本覚馬(西島秀俊)を中心に物語を展開する関係で、剛力彩芽演じるユキの出番は、否応なく細切れを余儀なくされるかもしれないものの、どう演じるんだろうなあ。
特に、明治の裏面史としての、斗南での暮らしぶりを、どう表現するのかが、本当に気になる。
当たり前のごとくCMで目にするようなカワイイ表情のままだったら、評価は変わらず、成長も見込めないのでは?
2013-02-15 |
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