八重の桜 あらすじ ネタバレ 第20回
5月19日日曜日放送の、NHK大河ドラマ『八重の桜』第20回。
運命が大きく変わることに。
事の発端は、1867(慶応3)年10月14日の"大政奉還"。
徳川慶喜(小泉孝太郎)の真意は、薩長による武力倒幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議で、改めて国家首班に就くということ。
ところが、
諸国の大名は様子見をして上京せず、結局、諸侯会議は開かれないまま。
旧幕府旗本や会津藩などの急進派や過激派といった勢力は、薩長討つべしと息巻いて、旗本の中には無許可での上京が相次いで...。
一方、薩摩藩の西郷吉之助(吉川晃司)や大久保一蔵(徳重聡)や、公家の岩倉具視(小堺一機)といった倒幕派は、12月9日、"王政復古の大号令"を発して、慶喜に辞官納地を命じることに。
翌日、徳川家親族の新政府議定の松平春嶽(村上弘明)と徳川慶勝(金子賢)が使者として慶喜のもとへ派遣し、決定を慶喜に通告。
慶喜は謹んで受けつつも、配下の気持ちが落ち着くまでは、不可能と返答。
事実、通告により配下の過激派が暴走しかけたため、慶喜は軽挙妄動を慎むように命じて、12月12日深夜には新政府に恭順の意志を示すために、京の二条城を出て、翌日に大坂城へ。
春嶽は、慶喜は「天地に誓って」の辞官納地の実行する、という見通しを、総裁の有栖川宮熾仁親王に報告。
しかし、大坂城に入った後の慶喜からの連絡が途絶え...。
この一件は、12月23日と24日においての政府の会議で採り上げられることに。
参与の大久保は、慶喜の裏切りとみなし、領地返上を求めるべきと主張。
春嶽は、旧幕府内部の過激派による慶喜への妨害を予測、説得不可能とみて「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきことを主張。
岩倉も春嶽の考えに賛成、他の政府の面々も、概ねこれが現実的と判断し、この命令が出されることに決定。
再度、春嶽と慶勝が使者に立てられ、慶喜に政府決定を通告。
近日中に慶喜が上京することも合意。
この時点まで、慶喜は復権に向けて着実に布石を敷いていたという。
ところが、
薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作。
12月25日、庄内藩による江戸薩摩藩邸焼き討ち事件が発生。
28日、大坂の慶喜に一報がもたらされ、周囲ではさらなる薩摩討つべしの声が高まった。
1868(慶応4)年1月1日元旦。
徳川慶喜は薩摩を討つべしと命令を下すことに。
1月2日から3日にかけて、"慶喜公上京の御先供"という名目で、事実上の京の封鎖を目的とした出兵を開始。
旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道へ、会津藩と桑名藩の藩兵や新選組などは伏見市街へ、それぞれ進軍することに。
慶喜出兵の報告を受けた政府は、1月3日、緊急会議を召集。
政府参与の大久保は、旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告の必要を主張。
政府議定の春嶽は、薩摩藩と旧幕府軍の一方的な私闘で、政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。
会議は紛糾。
しかし、政府議定の岩倉が、徳川征討に賛成し、会議の大勢は決してしまった。
世に言う、"戊辰戦争"の序盤戦となる、"鳥羽・伏見の戦い"が勃発した。
旧幕府軍は、人員で上回っていながらも、政府軍の最新兵器と錦旗に押されて、敗退することに。
多くの配下の死に、松平容保(綾野剛)は涙。
徳川慶喜の変わり身の早さ、後々に尾を引くことになってしまう放送回。
1990(平成2)年放送のNHK大河ドラマで、西郷隆盛(西田敏行)と大久保利通(鹿賀丈史)を主人公にした『翔ぶが如く』、思い出した。
幕末と明治維新後の二部構成による放送のうち、第一部の第27回と第28回と最終回の第29回だったかなあ、三田村邦彦演じる徳川慶喜、『八重の桜』での小泉孝太郎の演じたままの狡猾さだった。
明治維新と戊辰戦争後の『八重の桜』は、ヒロイン八重(綾瀬はるか)と山本覚馬(西島秀俊)のいる京都での物語に比重が置かれるんだろうなあ。
となると、明治維新後の政府のあらゆる動きは、細切れで駆け足になりそうだ。
もし、どうしても、明治維新後の政府の詳しい経緯を知りたいならば、先の『翔ぶが如く』第二部を観るのがふさわしいかな。
維新間もない頃から1877(明治10)年9月の西南戦争終結までの19回にわたる放送、さすがに重みがある。
2013-04-15 |
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