八重の桜 あらすじ ネタバレ 第48回
12月1日日曜日に放送。
東京にて大隈重信(池田成志)が不審者に投げつけられた爆弾で、右脚を失った。
力づくでことを押し通す方法の横行で、人間の良心の失われることの危機感を強めた襄(オダギリジョー)は、次の活動先である前橋へ。
しかし、上州特有のからっ風は、病弱の襄の心身をさらの痛めつけることとなり、1889(明治22)年11月28日、心臓疾患の悪化でついに病床に伏せてしまう。
その後の襄は重度に陥った心臓疾患と腹膜炎の療養のため、神奈川県大磯の百足屋にて宿泊。
襄は、八重(綾瀬はるか)に病状を伝えないことを条件に、看護にあたる徳富蘇峰(中村蒼)に覚馬(西島秀俊)への連絡を託した。
しかし、襄からの手紙の「当方無事」という弱々しい字体から、八重は襄の病状の悪化を直感。
かねてから口止めを頼まれていた覚馬から、すべてを聞き出し、百足屋へ向かうことに。
八重がたどり着いた時には、襄はすでに重篤だった。
熊本バンドの一員で東京で布教活動を行う牧師の小崎弘道(古川雄輝)が最後の祈祷を捧げた後、八重と襄は二人きりに。
互いに感謝の気持ちを涙ながらに伝えあった後、
「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」
八重に最期の言葉を残して、襄は静かに永眠した。
1890(明治23)年1月23日14時20分、享年46歳。
葬儀は1月27日13時より同志社前のチャペルにて営まれた後、勝海舟(生瀬勝久)の筆による墓碑銘にて、遺体は京都東山若王子山頂に埋葬された。
数日後、憔悴する八重に、覚馬は捨松(水原希子)のいる日本赤十字社篤志看護婦人会へ行くよう促した。
当初行く気力のない八重だったが、襄のつくろうとした世界を実現させるためだとする覚馬からの叱咤を受け、八重は少しずつ前を向いてゆく。
襄のつくろうとした世界。
すなわち日本赤十字社の真髄は、敵味方の区別なく、傷ついた人間に手を差し伸べて、慈しみの光を当てること。
そして八重と捨松との再会。
八重と行動をともにする捨松が語るには、当初は薩長の金で学問を習得することに抵抗があったという。
しかし、日本国内でいかなる経緯があろうとも外国へ出ればすべて日本人、と諭す襄の考えに感化されて以来、より深く学ぶことができて、嬉しかったとのこと。
実習での八重は、かつての会津戦争の鶴ヶ城籠城戦で多くの傷病兵を手当てしたことあって、西洋人医師から高く評価された。
八重は襄のつくろうとした世界へと、足を踏み入れてゆく。
同年11月、第1回帝国議会が開会。
内閣総理大臣の山県有朋(猪野学)は、日本の主権と独立を守るために、国防力強化のための軍備に多額の予算を充当する旨を発表した。
襄のつくろうとした世界。
2009(平成21)年11月に発刊された、東京女子大学現代教養学部国際社会学科教授・黒沢文貴と、日本赤十字豊田看護大学看護学部准教授・河合利修による、
『日本赤十字社と人道援助』(東京大学出版会)
主な内容は、西洋先進国が示した「人道」の理念は、「文明国」をめざす近代日本においていかに受容され、展開したのかを軸に記述。
当時、新たに公開された日赤の原史料をもとに、その誕生から昭和初期の戦時救護を軸とした活動の実態を解明。
そして、日赤の国内的・国際的に持った意味の考察がされており、今日の人道活動を考えるうえでも指標となる貴重な一冊。
現在でも息づいているんだなあ。
2013-10-10 |
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