八重の桜 あらすじ ネタバレ 第49回
12月8日日曜日に放送。
1890(明治23)年、教育勅語が発令。
先の明治維新以来の急激な西洋化の振り戻しからか、国家主義的な機運が高まりの中、覚馬(西島秀俊)は「国家の危機には忠節をもって天皇に尽くすべし」の一文が、教育の名の下に人間を束縛するのでは、と恐れを抱いて悶々とした日々。
八重(綾瀬はるか)は、京都赤十字社発足に伴い、篤志看護婦人会京都支部を手伝うことになったものの、ままごとでもするかのように楽しそうで、危機感のない婦人会の雰囲気に、不安を抱き始めて葛藤。
そんなある日のこと、八重と覚馬は山川健次郎(勝地涼)と再会。
健次郎は兄・浩(玉山鉄二)とともに『会津戦記』の取りまとめの追い込みに入っていて。
しかし、目を通した覚馬は、勤王の志は薩長にもあったと口にして、八重と健次郎の反発を招いてしまうこともあり...。
悶々とする日々は流れて、1891(明治24)年6月、同志社にて13回目の卒業式が執り行われた。
臨時総長の覚馬は登壇、いかなる時代であろうとも、人間として一国の世界の良心であることの大切さを訴える演説により、万雷の拍手に包まれて、引退を決意。
小崎弘道(古川雄輝)に同志社社長(総長)の任務を託した後、覚馬は安堵してしまった反動からか、重篤に陥った。
1892(明治25)年12月28日、山本覚馬永眠。
享年64歳。
一方、時を同じくして、東京・小石川の質素な住まいには、浩と健次郎が病身の松平容保(綾野剛)に謁見していた。
肺炎を患った容保は、大切な場所に保管していた錦の袋の中から、亡き孝明天皇(市川染五郎)から賜った御宸翰(直筆の文)と御製(和歌)を見せて、会津が逆賊でないことの証であることを告白。
戦とは勅の奪い合いであったこと、勅を得たものに正義のあったこと、御宸翰と御製の公表による戦の火種を恐れていたことも打ち明けると同時に、天皇への忠節を尽くしたために、会津を死地に追いやってしまったことを涙ながらに詫びた。
そして、浩と健次郎に、最後の君命として、自身の過ちを一国の破滅に導かないための今後の戒めとするよう命じた後、
松平容保は、1893(明治26)年12月5日、静かに生涯を閉じた。
享年59歳。
時は流れて1894(明治27)年3月、朝鮮半島における農民の反乱の鎮圧のため、日本と清国が派兵。
しかし、双方ともに撤退せずに緊迫化、8月に日清戦争が勃発した。
八重の属する日本赤十字社京都支部は、大本営付近の広島陸軍予備病院に、人員を派遣。
八重は、司令官閣下・大山巌(反町隆史)の元へ出向いて、敵味方関係なしに手当てする看護士たちが滞りなくことを進められるよう、取り計らいを願い出た。
巌は全軍への訓示を約束。
戦の渦中にありながらも平和を願い実現させたいという気持ち、人間なら誰でも同じもの。
しかし、それでも戦に巻き込まれてしまう悲しい流れ。
いかなる時代においても、戦における人間の葛藤は想像に絶するもの。
そのような思いをめぐらせる中、今年の4月から6月まで放送されたTBS日曜劇場『空飛ぶ広報室』のDVDとBlu-rayが、11月29日金曜日に発売とのこと。
毎週日曜日20時からの『八重の桜』で松平容保を演じる綾野剛のハマりっぷりに魅入ってしまう余韻の引きずる中、立て続けに21時からの『空飛ぶ広報室』での綾野剛の別の顔に魅入ってしまう面白さが、忘れられなかったなあ。
この時演じたのは、念願の航空自衛隊戦闘機パイロットになった矢先に、不慮の事故で右膝半月板を損傷して免許取消になってしまった広報官。
特に、仕事上の失態で報道局から情報局へ左遷されられた女性ディレクター(新垣結衣)に心を開き始めてから、少年の心のまま戦闘機の話をする表情と振る舞いが、とても面白かった。
軍隊から自衛隊へ、軍人から自衛官へ、それぞれ名前の変わった現在、
任務に携わる人たちの平時と緊急時それぞれにおける思いと行動、
心から考えさせられます。
発売日の11月29日金曜日が待ち遠しいや。
2013-10-11 |
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