軍師官兵衛 キャスト 速水もこみち
2014(平成26)年1月5日日曜日放送開始の第53作目のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の気になる登場人物として、
主人公・黒田官兵衛(岡田准一)に仕官する家臣団、すなわち後の"黒田二十四騎"の一人の栗山善助(濱田岳)と同じくらい気になるのは、その5歳年上の善助と義兄弟の誓いを立てることとなる、母里太兵衛(速水もこみち)。
もちろん濱田岳と同じくNHK大河ドラマ初出演。
初登場は、2月9日日曜日放送の第6回。
母里氏と耳にすれは、出雲国の尼子氏に繋がる[出雲国母里(望里)の出自という説があって、『出雲風土記』の時代から島根県安来市あたりの地名]播磨の国人であり、現在の兵庫県加古郡稲美町母里が本貫とされるとか。
1556(弘治2)年前後に、播磨国妻鹿の国人・曽我一信の子として誕生。
弟に野村祐勝。
父・一信(塩見三省演じる母里小兵衛?)は播磨国で勢力を持っていた小寺氏に仕え、黒田職隆(柴田恭兵)の与力的な立場。
やがて、太兵衛も1569(永禄12)年に、職隆の子・官兵衛(岡田准一)に出仕。
理由は定かではないものの、このときに母方の姓である"母里"と名乗ったとされるが、正式に母里氏の家名を継いだかどうかは不明。
1573(天正元)年の"印南野合戦"への初陣から始まり、常に先鋒を務めて活躍。
1578(天正6)年に突如織田信長(江口洋介)に叛旗を翻した荒木村重(田中哲司)によって主君・官兵衛が捕らえられた際に忠誠を誓った留守中連著起請文にも連名。
官兵衛救出後も変わらず従い中国、四国を転戦し、1587(天正15)年正月より開始された九州征伐では、豊前宇留津城攻めで一番乗りの戦功を挙げ、官兵衛の豊前入国後は6,000石を与えられたとされる。
1592(文禄元)年の"文禄の役"、1598(慶長3)年の"慶長の役"にも官兵衛の子・黒田長政(松坂桃李)に従って参戦。
特に、その過程における、かの民謡「黒田節」にまつわる逸話。
聞くところでは、文禄・慶長の役休戦中の際の出来事に由来するとされていて...。
京都伏見城に滞留中の福島正則の元へ、長政の使者として使わされた太兵衛は、正則の屋敷で酒を勧められたという。
太兵衛は家中でも"フカ"と言われるほどの酒豪だったが、使者である手前それを固辞。
しかし自身も酒豪である正則は、これに「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」としつこく勧め、更には黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たないからだ、などと家名を貶める発言。
太兵衛はこれを敢えて受けて大盃になみなみと注がれた数杯の酒を一気に呑み干すと、褒美として、正則が豊臣秀吉(竹中直人)から拝領した名槍「日本号」を所望。
不覚を取られた正則は、「武士に二言は無い」という言葉を受けて褒美に差し出した。
これによって"呑取り日本号"という異名と、越天楽(筑前今様)の節回しと供に「黒田節」として、黒田武士の男意気を示す逸話として広く知られるように。
それは、11月2日日曜日放送の第44回にて...。
1600(慶長5)年の"関ヶ原の戦い"では九州切り取りに動いた官兵衛に従い豊後国で蜂起した大友宗麟の息子で義兄・大友義統を降伏させるなど、随所で類稀なる働き。
後に長政が豊前中津18万石から筑前名島52万石に加増移封となった際には筑前鷹取城1万8,000石を拝領。
死去は1615(元和元)年。
速水もこみち演じる母里太兵衛か...。
生涯に挙げた首級は実に76と家中で一番とのこと。
「荒くれ者だけど殿への思いは人一倍」
その心積もりで演じるらしくて...。
ふと気になった。
2005(平成17)年1月より放送された日本テレビ土曜ドラマ『ごくせん(第2シリーズ)』で演じた、黒銀学院高校3年D組生徒の"つっちー"こと土屋光に近いとか?
外見ゆえ中学生時代以来問題児とされ、当初は担任である任侠集団・大江戸一家出身の"ヤンクミ"こと山口久美子(仲間由紀恵)をバカにしていたが、とある一件で退学させられそうになった時、自分を最後まで信じてくれたことから信頼を置くようになる役どころで、他人であろうと自身の信頼する人物が傷つくことがあれば、暴力的になりやすい性格。
2009(平成21)年7月公開の映画『ごくせん THE MOVIE』では、成長した姿が...。
あれから2年半余か...。
荒くれ者ながらも、物語の展開の過程で、家臣団として少しずつ洗練されてゆくかのような予感が...。
特に、民謡「黒田節」にまつわる逸話で魅せてくれる、"黒田武士"の男意気...。
本当に楽しみ。
現在、日本テレビの朝の情報番組『ZIP!』の「MOCO'Sキッチン」の顔が定着している中での、新たな魅力を発揮か...。
2013-12-27 |
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