軍師官兵衛 NHK あらすじ ネタバレ 第32回
8月10日日曜日に放送。
1583(天正11)年4月の"賤ヶ岳の戦い"で柴田勝家(近藤芳正)に勝利した羽柴秀吉(竹中直人)の勢いの強まりを実感する徳川家康(寺尾聰)は、信長(江口洋介)亡き後の織田家承認の下、織田遺領の甲斐・信濃を確保し、お膝元の三河・遠江・駿河を加えた五ヶ国を領有するものの、秀吉のさらなる増長に危機感を抱きつつある中でのこと。
先の賤ヶ岳の戦いで秀吉に擁立された信長の次男・信雄が、同年暮れに大坂城を新築した秀吉から、居城・安土城を退去させられ、秀吉を敵視し始めることに。
1584(天正12)年となり、危機感を抱いた秀吉は、信雄家臣の津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の三家老を懐柔し傘下に組み込もうとするが、激怒した信雄は3月6日に親秀吉派の三家老を処刑。 家康と同盟を結ぶこととなった。
信雄は家康とともに挙兵し、3月7日に出陣。
世に言う"小牧・長久手の戦い"が始まった。
結果としては引き分け。
先に織田・徳川連合軍が戦術において勝利し増長の後に、羽柴軍が戦略で巻き返しての勝利、といった薄氷を踏むかのような戦いだった。
厳密に見ると、秀吉は、この時北条氏と同盟関係の家康を完全に屈服させることに失敗。
名実ともに武家の棟梁を意味する征夷大将軍となるためには、東国(特に関東)を支配することが必要条件とされているゆえ、幕府開設への道が閉ざされたも同然で...。
羽柴軍の巻き返しに陰ながら奮戦した黒田家は、長政(松坂桃李)率いる軍勢の"岸和田の戦い"での戦功から、7月に播磨国宍粟郡(山崎)篠の丸城を与えられ5万石の大名に。
前後して3月に内大臣になった秀吉は、大坂城茶室にて、千宗易(伊武雅刀)と官兵衛(岡田准一)と三成(田中圭)と話し合い。
今後の名誉のためにも徳川を攻めるべしとする三成に対し、官兵衛は徳川の譜代からの家臣と三河衆との結束の固さゆえ難攻となること、先に四国と九州を平定して存在感を確立させることが、秀吉の天下取りへの最善の道であることを、理路整然と伝えた。
秀吉は快く感服。
三成は内心不服だったが、秀吉としては、この時接し方に困惑していた茶々(二階堂ふみ)との仲介を買って出たこと、常に先を読んで行動の積み重ねもあって、三成を信頼していた。
おね(黒木瞳)の元へ戻った秀吉は、天下取りへの道のりにおいて官兵衛に踊らされているだけでは、と不安を口にし始めて...。
おねにたしなめられて秀吉は安堵したものの、官兵衛に対する漫然とした警戒感が芽生え始めていた。
官兵衛が四国攻めの手筈を整えるために大坂に留まる中、長政は山崎城周辺の領民に四苦八苦。
先の領主・宇野氏が秀吉に滅ぼされたことで、慕う領民からの秀吉への不満は根強かった。
道普請と堤工事に応じない領民から、官兵衛は軍師ゆえに国を治められないと蔑まれたことで、長政は逆上。
太刀を抜こうとする長政を太兵衛(速水もこみち)が止め、善助(濱田岳)が道普請と堤工事の大切さを領民に切々と伝えることで、ことなきを得たものの、長政は納得できない気持ちの残ったまま。
間もなく、先の長政の言動を耳にした城の勤めの者が次々に城を離れ始めたことを知った長政は、大坂から戻った父・官兵衛から厳しく叱責されることに。
これまで信じてきた領主を滅ぼされた領民の怒りの大きさを第一に考え、裏切られても信じる気持ちでことにあたらなければ、国をまとめることはできないと。
長政は自身を恥じ、皆に詫びたい気持ちを伝えたいと、村の代表を集めるよう善助に使いを頼んだ。
官兵衛は、失敗を重ねつつ成長しようとする長政を、温かく見守るようになってゆく。
1585(天正13)年、四国攻めが始まって2ヶ月後、諸将を陥落させた後に、総大将の土佐国国主・長曽我部元親が降伏へ。
やがて、官兵衛の父・職隆(柴田恭兵)は病床に。
息子・官兵衛と孫・長政の武功による黒田家の安泰あって、1585(天正13)年8月22日、穏やかに最期を迎えた。
享年62歳。
黒田家の強い仕官あって秀吉の天下取りが確立させつつある中、東国の支配を撥ね退けた家康の存在感も気になるところ。
その底力となる源と言えば、現代に置き換えれば、愛知県産の三河豚なのかもしれない???
豚肉特有の臭みがなく、脂身の甘いのが特徴で、
『愛知産三河豚 バラ ブロック 1kg』
『愛知産三河豚 ロース 焼肉用 1kg』
『愛知産三河豚 バラ 焼肉用 1kg』
『愛知産三河豚 ロース しゃぶしゃぶ用 1kg』
『愛知産三河豚 バラ しゃぶしゃぶ用 1kg』
いろいろと食しては、とてつもない精力を付けていたのかも?
2014-06-03 |
共通テーマ:日記・雑感 |
nice!(0) |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
編集
コメント 0