軍師官兵衛 NHK あらすじ ネタバレ 第35回
8月31日日曜日に放送。
大友宗麟の要請で九州の豊前に進出し、薩摩の島津を後退させた官兵衛(岡田准一)は、秀吉(竹中直人)の書状に従い、味方になる大名には本領を安堵させる約束を取り付けるため、家臣団に調略を指示。
家臣団は二手に分かれて、又兵衛(塚本高史)は九郎右衛門(高橋一生)に師事。
ただ、嫡男として官兵衛の元に残され、戦への熱の強い長政(松坂桃李)だけは、やや不服のよう。
やがて一段落して、長政は官兵衛と家臣団との集まりにて、官兵衛が三成(田中圭)の讒言により秀吉から遠ざけられているのでは、といくらか釈然としない気持ちを打ち明けた。
そして、大坂城での秀吉との対面における家康(寺尾聰)の度量の深さを口にして...。
官兵衛から、次の天下取りを目当てに臣従を装っているだけとたしなめられるものの、長政は家康にやや心酔しているかのようで...。
1587(天正15)年3月、秀吉出立の時。
女子衆からの見送りに、茶々(二階堂ふみ)が参上。
茶々は、秀吉や女子衆を、特に正室おね(黒木瞳)を睨むかのように、亡き道薫(田中哲司)の言い放った乱世の生んだ化け物らしく生きてゆくと宣言。
おねと茶々の静かなる暗闘の始まりに内心身震いしつつ、秀吉は出立へ。
九州入りした秀吉本軍は、3月28日に小倉城へ入城。 筑前、筑後、肥前の大小名への調略で味方を増やした官兵衛をねぎらった。
本軍は南下の過程で、25万の軍勢に膨れ上がり、無益な戦を避けたい思いの強まった島津義久は、剃髪して降伏へ。
ただ、薩摩・大隅方面の人間の元来の気性の激しさと、戦となった時の泥沼を考慮に入れてか、本領はそのまま安堵されることに。
6月7日、本軍は博多の近くの筑前・箱崎へ凱旋。
大友と島津の戦で焼け野原となった町の立て直しが、官兵衛と三成を中心に進められてゆく。
南蛮との交易のみならず、薩摩攻めで実感した土着の心なくしては、立て直しもありえないとして...。
そのような日々の中でのこと、官兵衛は右近(生田斗真)からの突然の書状に驚き。
今までの身の上を望むならば、キリスト教を捨てよとの秀吉からの命令が...。
右近は、かつての有岡城の戦いの折に信長を恐れて信念を曲げてしまった自責の念から、応じない構え。
すぐさま官兵衛は、秀吉の寝所に出向き取り下げを願い出たが、秀吉は応じず。
秀吉曰く、領民の強制的なキリスト教へ改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたことの発覚が、きっかけとのこと。
このままキリスト教が拡大すれば、一向一揆のような反乱も時間の問題とか。
そして、三成を介しての「伴天連(バテレン)追放令」が...。
ただちに布教禁止し、20日以内の国外退去を命じるもので、応じなければ謀反として攻め滅ぼすと..。
言葉を失った官兵衛に、秀吉はすぐさま話を切り換え、先の九州攻めの恩賞として黒田家に豊前国を与えるとの下知。
官兵衛はさらなる驚き。
というのも、豊前国は400年余にわたって、名門・宇都宮一族が統治。
先の九州攻めにおける調略で、本領安堵の約束を前提に、第16代当主で城井谷城主・宇都宮鎮房(村田雄浩)を、難渋ながらも秀吉の傘下に取り込んだ経緯から、官兵衛は再考を促した。
しかし秀吉は、宇都宮一族には別の領地を与えると頑なだった。
官兵衛は、新たなる波乱に内心震えることに。
筑前入りの第一歩か...。
ほぼ何もない状態(?)からの始まりだったんだろうなあ。
楽観すぎると言われてしまえばそれまでだろうけど、早いうちに戦もなく長いこと続いていたならば、かなりの賑わいとなっていたかもしない。
過酷な環境ゆえ身の引き締まりやすい北九州・日本海から直送の『玄界灘の鮮魚 7 ~11匹』、
何と言っても名物の明太子である『超極太辛子明太子400g』、
自家製天然肥料による「筑前 飯塚宿 たまご処 卵の庄」の『地鶏栽培米 10kg』、
国産原料のみの使用で日本の大地で育まれた食材『菜ごころ 国産筑前煮 230g×20袋』、
海と丘それぞれからの幸であふれるように。
2014-06-07 |
共通テーマ:日記・雑感 |
nice!(0) |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
編集
コメント 0