軍師官兵衛 NHK あらすじ ネタバレ 第44回
11月2日日曜日に放送。
1595(文禄4)年7月15日の関白・豊臣秀次(中尾明慶)の謀反の疑惑の咎による切腹に端を発した一連の"秀次事件"は、重い不協和音をもたらすこととなった。
秀次と関係していたとする理由で太閤・豊臣秀吉(竹中直人)の不興を買った大名は、讒言したとみなす三成(田中圭)への不満を強め、かねてからの豊臣内部における対立を、さらに深める結果となってしまった。
豊臣家崩壊の兆しらしきものの見え隠れするまま、その年は暮れることとなって...。
明けて1596(文禄5)年、長政(松坂桃李)からの下知を受けて、太兵衛(速水もこみち)は年賀の使者として、京都伏見城に滞留中の福島正則(石黒英雄)の元へ出向いて、正則の屋敷で酒を勧められた。
さすが黒田家中でも"フカ"と言われるほどの酒豪の太兵衛だったが、長政の下知による年賀の使者である手前それを固辞。
しかし自身も酒豪である正則は、これに「呑み干せたならば好きな褒美をとらす」としつこく勧め、さらには黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たないからだ、特にここ最近の官兵衛改め如水(岡田准一)が牙を抜かれたかのように秀吉の言いなりに成り下がったと悪し様に言うなどと、などと家名を貶める発言をするまでの挑発ぶり。
太兵衛はこれを敢えて受けて大盃に並々と注がれた数杯の酒を一気に呑み干すと、褒美として、正則が秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望した。
不覚を取られた正則は、「武士に二言は無い」という言葉を受けて褒美に差し出すと、太兵衛は槍を担ぐなり藩歌「筑前今様」(現在の『黒田節』の元歌)を歌いながら、意気揚々と帰ることに。
一方、日本と明の間には、再び暗雲が...。
先の"文禄の役"における停戦の折に、秀吉には明降伏、明朝廷には日本降伏、とのそれぞれの報告すなわち日明双方の講和担当者による穏便に講和へ導くための偽りの報告が原因で、双方の考えのすれ違いが、かなり大きなものになっていた。
やがて同年9月となり、秀吉は来朝した明使節と謁見。
自分の要求が全く受け入れられていないことを初めて知って激怒した秀吉は、使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定。
翌年の1597(慶長2)年、再び朝鮮へ出兵する前に、如水は病の床にあった小早川隆景(鶴見唇吾)を見舞う。
隆景は如水とともに、時が流れるのを忘れて、懐かしい昔語りで、互いを確かめ合って...。
数日後の6月12日、隆景は静かに息を引き取った。
享年64歳。
いわゆる"慶長の役"の始まりや小早川隆景の死も気になるところであることはもちろんでも....
いよいよ、速水もこみち演じる母里太兵衛が、存分に魅せてくれることに...。
"呑取り日本号"という異名と、越天楽(筑前今様)の節回しとともに「黒田節」として、"黒田武士"の男意気を歌う姿が、遠い将来に広く知られることになる逸話として残ることを、誰が想像できただろうなあ。
その「黒田節」に想いを馳せるならば、ラベルに"黒田武士"が描かれた本格辛口清酒『喜多屋 金 九州』(1,800ml)が一番だろうけど...。
この回では、京都伏見城における"おもてなし"が...。
現代に置き換えれば、以下の酒と肴に換算できる価値なのかもしれないや。
酒としては、
桃山丘陵を水源とする"伏し水"、かの豊臣秀吉が"醍醐の茶会"の際に御香宮で汲み上げたとされる御香水と同じ伏流水...。
より磨かれた精米である酒米、すなわち酒米備前の"雄町米"、兵庫県の"山田錦"、京都府の"祝"...。
すなわち"純米酒"へのこだわりの強い酒、京都・伏見の蔵元 『玉乃光』 の神髄を集めた『純米大吟醸・純米吟醸 飲み比べセット』に匹敵する美味しさだったんだろうなあ。
肴としては、京都錦市場から仕入れた新鮮な魚を、西京みそと伏見銘酒の酒粕とで漬け込むこととなった上品な味と香りを堪能できる、贅沢な味噌粕漬...。
すなわち各地で探した逸品を産地より直送でお届けられる『京都 東山亭 味噌粕漬 「公家三昧」』 が...。
さらなる贅沢を求めるならば、『京都伏見 魚三楼 金ごま豆腐』も...。
もし時空が越えられるなら、存分に味わってみたいもの。
2014-09-30 |
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