軍師官兵衛 NHK あらすじ ネタバレ 第48回
11月30日日曜日に放送。
1600(慶長5)年7月、石田三成(田中圭)が大谷吉継とともに挙兵、徳川家康(寺尾聰)のいた大坂城・西の丸を奪回。
増田長盛(有薗芳記)、長束正家(佐久間哲)ら奉行衆を説得の上、五大老の一人・毛利輝元(三浦孝太)を総大将として擁立して、『内府ちかひ(違い)の条々』という13ヶ条に及ぶ家康の弾劾状を諸大名に対して公布することに。
ほどなく、家康古参の重臣・鳥居元忠の守る伏見城を、4万の軍勢で攻略、元忠は戦死し伏見城は落城へ。
侵攻はさらに、伊勢国、美濃国方面へ。
ほぼ同じくして三成は、大坂に住む各大名の妻子に大坂城へ入るよう下知。
すでに察した善助(濱田岳)と太兵衛(速水もこみち)は、手筈通りに光(中谷美紀)と栄(吉本実憂)をそれぞれの米俵の中に。
二人は太兵衛の双肩に担がれる形で、黒田屋敷を出立。 なじみの出入り商人である納屋小左衛門の蔵で、しばらく待機することとなった。
そして、黒田屋敷の前では、石田方の役人と善助が押し問答。
光と栄が風邪で床に伏せていることを理由に、善助は強引に押し切ろうとするが、役人は応じないまま。
逆上した善助が太刀に手をかけ、一戦交える構えを見せると、黒田家一族、特に如水(岡田准一)の底力を恐れる温厚な役人が、高圧的なの方を押さえる形となり、窓の外からの目視ということで、その場は収まった。
ただし、あと3日の猶予を条件として...。
光になりすました侍女頭・お福(阿知波悟美)と、栄になりすました善助の正室・お道(福島リラ)は、しばらくそのままの出で立ちで過ごすこととなった。
石田方の役人と兵による包囲網の狭まりつつある中、不幸にも、細川屋敷にて細川忠興の正室・玉すなわちガラシャ夫人が城入りを拒み、家臣による介錯で自ら命を絶ち、屋敷ごと炎上。
死を悼みつつも、善助と太兵衛は混乱に乗じて、光と栄を荷車に乗せて隠し、出立。
細川屋敷炎上の混乱で、役人と兵は方々に散って警戒は手薄となり、止めに入る役人には理由を付けて強硬に押し切り、大坂の港へ。
そして、乗ることのできた船は中津へ向かった。
一方、下野国・小山の陣においての家康は、すでに伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。
重臣たちとの協議の後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると決意を固めた。
三成に反感を持つ武断派の大名らの集結する中、長政(松坂桃李)は遅れて到着。
幼少よりともに兄弟同様に育ててくれたおね(黒木瞳)への恩義と秀頼君への忠義に揺れる福島正則(石黒英雄)の心変わりが心配だったとのことで、敵は三成であって秀頼君ではないとする説得を聞き入れてくれたと報告。
家康が長政の父譲りの調略ぶりを讃えて間もなく正則が到着、すぐさま軍議へ...。
家康は、三成が秀頼君を奉じた上に妻子の人質による心苦しさを慮り、石田方に与したい者は無理に止めない旨を伝えた。
大名たちは心から感服。
戦列からは誰ひとり離れることのないまま、家康を総大将とした東軍が結成、上方に向けて出立へ。
光と栄と善助と太兵衛を迎え入れることとなった、如水(岡田准一)のいる豊前中津城では、九郎右衛門(高橋一生)の下、大枚をはたいては町民や農民関係なしに兵を募って、城下にて鍛錬の日々。
その数は1万に膨れ上がっていた。
如水は石田方の大名の大勢を占める九州を掌握の暁には、中国へ攻め入り、徳川方と石田方のどちらかに決戦を挑む構えの整いつつあった。
そして長政には、自身で説き伏せる心積もりらしく...。
その知らせはすでに三成はじめ重臣たちの元に届いており、亡き大友宗麟(上條恒彦)の嫡男・吉統(増田修一朗)の調略へ...。
大友家は数年前の朝鮮出兵における不手際で亡き秀吉(竹中直人)の怒りを買い、長きにわたる謹慎のために家臣は方々に散っていた。
大坂城へ呼び出された吉統は、如水討伐の暁には大友家再興の確約という三成の申し出を快く受け入れて、兵を整え始めることに...。
同じくして三成の調略に大いに揺れる男がいた。
おねの甥にあたる少納言・小早川秀秋(浅利陽介)だった。
秀秋は亡き小早川隆景(鶴見唇吾)からの遺言により、万一の時は如水の言葉に耳を傾けて決断せよと強く言い聞かせられていたものの、三成から示されたより良い利のみならず、秀頼君を奉じた豊臣家への忠義に大きく揺れて、おねに泣きつくほどのひ弱さで...。
おねは秀秋を叱咤、心許せる人物への書状を送る旨を打ち明け、最後に決断するのは秀秋自身であることを、念押しした。
この第48回で、いよいよ小早川秀秋が初登場。
後の天下分け目の関ヶ原の戦いの鍵を握る人物が...。
戦の終わって間もなく、秀秋は論功行賞では備前と美作と備中東半国にまたがる、播磨の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山藩55万石に加増・移封へ。なお、戦後まもなく、秀秋から秀詮へと改名している。
岡山に移ってすぐに居城岡山城を改築するとともに、検地の実施、寺社の復興、農地の整備など急速な近代化を進めたという。
しかし、それも束の間、いくらか波乱のあったようで...。
国指定の史跡となった名城・岡山城は、岡山県岡山市北区に。
標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に築かれたという。
真近にある当時の旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとか...。
岡山県産の代表的なお米・朝日米60%で造った『きびの吟風 純米酒 朝日米 1800ml』の肴として、
創業百六十余年かけての備前の地を代表する銘菓であり、ご贈答やお土産としても定評ある『味いろいろ(大手まんぢゅう・もなみ) 中 30個入り』 、
生鮮野菜余りや料理のレパートリーを増やすのにも使える『乾燥野菜 ドライトマト 40gX4個』。
当時の先人たちに想いを馳せて、現在のありがたみを堪能するとしよう。
2014-10-17 |
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