軍師官兵衛 NHK あらすじ ネタバレ 最終回
12月14日日曜日に放送。
1600(慶長5)年9月15日、美濃国不破郡関ヶ原にて、徳川家康(寺尾聰)が総大将の東軍と毛利輝元(三浦孝太)を総大将として石田三成(田中圭)が統率の西軍が、ついに衝突。
世に言う"天下分け目の大戦"として語り継がれることとなる"関ヶ原の戦い"の始まりだった。
戦端の火ぶたが切って落とされたのは、意外な成り行きから...。
濃霧の中で両軍は2時間ほど対峙し続け、霧も薄くなってきた頃、福島正則(石黒英雄)率いる本隊の横を、井伊直政(東幹久)と松平忠吉の小隊が通り抜けようとしていたところを、家康から先鋒を任された正則の家臣で先頭部隊長の可児吉長が呼び止めたのに反し、直政は松平忠吉の初陣と見聞を兼ねた敵陣への探りを理由に可児を制止。
ところが、直政の小隊は、西軍の主力である宇喜多秀家(武田航平)率いる本隊へ突然発砲。
すかさず宇喜多本隊も応射。 直政と忠吉の抜け駆けに激怒した福島本隊の鉄砲隊800名も、宇喜多本隊へ突撃を開始して...。
特に、東軍・福島隊と西軍の宇喜多隊とは、一進一退を繰り返す最大の激闘となった。
同じく、石田本隊には、黒田長政(松坂桃李)率いる本隊と細川忠興率いる本隊、すなわち士気の高い部隊同士が衝突、戦は熾烈を極めた。
三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、未だ参戦していない武将に戦に加わるように促す狼煙を打ち上げ、島津義弘率いる本隊に応援要請の使者を出したが、義弘は「使者が下馬しなかったため無礼だ」という理由で応援要請を拒否。
また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家(佐久間哲)・安国寺恵瓊(山路和弘)らは、徳川家と内応済みの吉川広家(出合正幸)に道を阻まれて参戦できないままゆえに、南宮山の毛利軍ら3万3000もの大軍は参戦せず。
この時としては、実質的な部隊数と兵力数の多さに加えて、軍勢同士の連携で果敢に波状攻撃を繰り返す東軍だったが、足並みの乱れの際立つ西軍ながらも士気は高く抵抗力は頑強、地形の有利に支えられていることあって、西軍は優勢を保ったまま。
小早川秀秋(浅利陽介)は松尾山の山奥に布陣し、1万5000の軍勢ではまともに戦っても勝ち目のないゆえ、当初は両軍の戦況が落ち着くまで動かないまま。
そして正午過ぎ、家康は内応を約していた秀秋が動かないことに業を煮やし、それを察した長政が松尾山に向かって威嚇射撃。
意を決した秀秋は軍勢を率いて松尾山を降り、東軍に寝返りへ。 東軍の藤堂高虎・京極高知本隊と激戦を繰り広げていた大谷吉継本隊の右翼を攻撃した。
吉継は、かねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600の直属兵でこれを迎撃、小早川隊を松尾山の麓まで押し返したのも束の間、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、秀秋に呼応して東軍に寝返り、大谷本隊の側面を攻撃へ。
黒田・福島本隊は、三成の首を狙いに総攻撃を仕掛け前進、三成は楯になった周囲の兵士からの勧めで少数の家臣とともに逃亡した。
これにより東軍の勝利が確定へ...。
如水(岡田准一)が、西軍敗退の知らせを耳にすることとなったのは9月19日、すなわち富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕えたことから。
善助(濱田岳)から詳しい経緯を耳にするなり、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れへ。
戦が終わり、家康は大坂城の淀(二階堂ふみ)と豊臣秀頼に拝謁。
先の戦と今後において豊臣家に仇なす者への成敗の旨を伝えた家康だったが、淀は内心憤りを秘めたままだった。
10月1日、大坂・堺を引き回された三成と恵瓊と小西行長は、京の六条河原において斬首。
10月3日には長束正家と弟の直吉が自刃。
この頃の如水は、西軍に属した太田一吉の臼杵城はじめとする諸城(熊谷直盛の安岐城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城など)を陥落へ。
国東半島沖の豊後水道付近では、水軍が関ヶ原での敗戦の際の中央強行突破を敢行して引き上げてきた西軍の島津義弘の軍船と戦い(義弘が同行していた立花宗茂と別れた後のこと)、焼き沈め。
10月14日、如水は兵5,000を柳川へ差し向け、自身は西軍に参加した小早川秀包の居城である久留米城攻めへ。 如水に従うこととなった鍋島直茂・勝茂も、32,000の兵を率いて久留米城攻めに参戦し、10月16日には柳川の支城である海津城を陥落。 その後、宇土城攻めを終えた加藤清正(阿部進之介)も参戦することに。
交渉の上、立花宗茂は降伏し如水軍に加わることとなり、11月に入り如水は立花宗茂、鍋島直茂、加藤清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐へ。
11月12日、肥後の水俣まで進軍した時、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令。
薩摩と大隅を残して、如水は撤退して軍を解散へ。
大坂にて、家康は如水と対面へ。
如水は、一連の独自の挙兵に関してありのままを家康に伝え、二心のないことを打ち明けた。
如水が引き上げる際に、いくらかの家臣による討伐の進言のあったものの、家康としては、如水にあるのは名の象徴するように水の如く澄み切った心のみとして、去りゆく如水を静かに見送った。
1601(慶長6)年、父・如水譲りの調略で家康からの信任を大いに得ることとなった長政は、筑前名島に国替えとなり52万3,000石を与えられることとなった。
ただし、九州での独自の働きをみせた如水には、隠居も理由に恩賞はないままで、黒田家臣団の見えない不満を鬱積させることに。
国替え早々入城することとなった名島城は手狭で簡素な城であったこと、太守としては不便な土地であったことから、如水とともに新たな城を築くことを決意。
堺と並ぶ商人の街博多の川を挟んだ隣接地を選び、当初は福崎という地を、黒田氏代々ゆかりの備前の故地と同じ名にあやかり福岡と改名することとなって間もなく、福岡城の築城を開始。
全体完成することとなるには、後の1606(慶長11)年に。
翌年1602(慶長7)年11月、長政と栄(吉本実憂)との間に、待望の嫡男・万徳のちの福岡藩第2代藩主・黒田忠之が誕生した。
翌年1603(慶長8)年2月、江戸幕府を開いた家康は初代征夷大将軍に就任。 名実ともに覇者となった。
しかし、就任の挨拶の傍らに京へ立ち寄ることとなった、おね改め高台院(黒木瞳)との話し合いで、如水は新たなる火種を予感。
淀と秀頼のいる大坂城には、亡き秀吉(竹中直人)の代に蓄えた莫大な財が残っており、しかも城は難攻不落。
戦と落城に翻弄され続けた淀は、頑なに家康に応じないままだった。
不安の尾を引くままの翌年1604(慶長9)年、天命を察した如水は京の伏見屋敷にて静かに療養、そして自身で予見した通りの3月20日の辰の刻、光(中谷美紀)と長政と栄、そして黒田家臣団に見守られるように、静かに永眠へ。
享年59歳。
亡き如水の不安は的中するかのように、1614(慶長19)年10月より、世に言う"大坂冬の陣"が勃発。
豊臣方の莫大な財と旧恩に報いようとする諸国の牢人と難攻不落の大坂城とあって、やむなく家康は和議へ。
しかし、豊臣方の安堵も束の間、家康は巧妙だった。
条件である大坂城の外堀を埋めるのみならず、内堀まで埋められたため、激高した淀と豊臣方は決起、世に言う"大坂夏の陣"へ。
先の和議によるそれぞれの牢人の所領安堵から、再び集結することとなった兵数は少なく、裸城同然。
野戦に討って出た果敢な武将や牢人は相次いで討死。 財も兵糧も底を尽きかけてきて...。
その豊臣方には、如水永眠から2年後の1606(慶長11)年、徳川方に忠実な長政の意に反して黒田家を出奔した、又兵衛(塚本高史)の姿もあった。
又兵衛としては、如水と長政による天下を望んでいただけあって、やや専横の度合いの見られる家康への忠勤ぶりに釈然としないものがあったらしく...。
やがて劣勢に追い込まれて5月6日、長政とのわだかまりによる悔いの残る中、又兵衛は黒田武士の誇りを賭けて、布陣した小松山から降りての展開・突撃を敢行、乱戦の中に討死した。
間もなく、先の冬の陣と違い近くに布陣していた長政の元にも一報がもたらされて、兄弟同様に育ちながらも袂を分かつことになってしまった運命を、長政は悔やんだ。
そして、運命の1615(慶長20)年5月8日、大坂城落城とともに、淀と秀頼は自害へ。
家康は、はるか遠くに炎上する大坂城を見つめながら、如水に天下が成ったことをつぶやいた。
高台院は、別の方角から臨んで、祈りを捧げた。
光は落飾して照福院となり、先の戦の終焉からしばらく後のこと...。
福岡城の隠居屋敷にて亡き如水の菩提を弔い、長政と向き合いながら、これまでの黒田官兵衛そして如水の生きざまを、静かに見つめてゆく。
この回をもって、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』は終了。
すべては、1600(慶長5)年9月15日、"天下分け目の大戦"となった"関ヶ原の戦い"から...。
徳川方の東軍に与した武将も、豊臣方の西軍に与した武将も、それぞれに正義をもって立ち向かっていったことに変わらず。
結果として徳川方の勝利、以後は260年余の太平の世に...。
それぞれの命運を左右することになった、多くの武将に想いを馳せてみようかなあ。
主戦場となった美濃国すなわち現在の岐阜県不破郡関ヶ原...。
後年の松尾芭蕉による「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと」が象徴するように、関ヶ原一帯では、日本アルプスから流れる木曽川と長良川と揖斐川の木曽三川による豊富な河川で育まれる水と土壌により、多くの特産品が...。
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しっかりと味わおうっと。
多くの先人の望まれた泰平の世と、美味しい食のありがたみの永続性に想いを馳せて...。
2014-10-23 |
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