花燃ゆ キャスト 東山紀之
1月4日日曜日放送開始のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』では、長州藩を舞台に、明治維新の精神的指導者・理論者として知られる吉田寅次郎のちの松陰(伊勢谷友介)と実妹・杉文のちの楫取美和子(井上真央)を軸に、彼らを取り巻く周囲の人間模様が描かれることになっているものの...。
やはり忘れてはならないのは、明治維新の元勲であり、薩摩藩の西郷吉之助のちの隆盛(宅間孝行)と大久保一蔵のちの利通と並んで「維新の三傑」と称され、「維新の十傑」の1人でもある、桂小五郎のちの木戸孝允。
生涯を振り返ってみれば...。
1833(天保4)年6月26日、毛利元就の七男・天野元政の血を引くという藩医・和田昌景の長男として生まれるも、1840(天保11)年に家庭の事情あって、7歳で向かいの家禄150石の大組士・桂孝古の末期養子に。
1846(弘化3)年、長州藩の師範代である内藤作兵衛(柳生新陰流)の道場に入門。
かねてから実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められたことあって、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始めることに。
一方、明倫館で吉田松陰から兵学を学び始めたのは、1849(嘉永2)年。 「事をなすの才あり」と評されるまでに。
(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなるというらしいから、どのように魅せてくれるのか、気になるところ)
藩主・毛利敬親(北大路欣也)による親試で2度ほど褒賞(即興の漢詩と『孟子』の解説)を受けて、長州藩の若き俊英として注目され始めたことも大きかったからか、1852(嘉永5)年に剣術修行を名目とする江戸留学を決意、藩に許可され、長州藩に招かれていた神道無念流の剣客・斎藤新太郎ほか5名の藩費留学生たちに随行し私費で江戸に旅立つ。
到着後、江戸三大道場の一つの練兵館に入門し、新太郎の指南を受けての免許皆伝を得て、入門1年で塾頭に。
藩命で帰国するまでの江戸での5年間、幕府講武所の総裁・男谷精一郎の直弟子を破るなど、剣豪の名を天下に轟かせることになったとか。
練兵館塾頭を務める傍ら、1854(安政元)年のペリーの再度の来航に大いに刺激され、当時としては移動の自由のない中、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など天領5カ国の代官である江川英龍に実地見学を申し入れ、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞。
しばらく後の、松陰による下田からのアメリカ密航計画に際しては、自ら積極的に協力を申し出るが、弟子思いの松陰から堅く制止され、結果的に幕府からの処罰を免れることに。
しかしながら、来原良蔵とともに藩政府に海外への留学願を共同提出し、松陰のアメリカ密航未遂への対応に弱っていた藩政府を、さらに驚愕させることになったことも。
いずれにせよ、倒幕方針をまだ持っていない長州藩政府が江戸幕府の鎖国の禁制を犯す海外留学を秘密裏にですら認める可能性は乏しく、これまで通り練兵館塾頭を勤め続けることに。
一方で、兵学家で幕府代官・江川英龍から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学び、浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学んだとのこと。
短い修学期間であったものの、互いの人格を認めあい、中島の家族からも厚遇されたとか。
ほかにも、江戸幕府海防掛本多越中守の家来・高崎伝蔵からスクネール式洋式帆船造船術を学び、長州藩士・手塚律蔵からは英語を学ぶなど、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける日々へ...。
やがて1862(文久2)年、藩政府中枢で頭角を現わし始めることとなり、周布政之助(石丸幹二)や久坂玄瑞(東出昌大)たちとともに、亡き松陰の航海雄略論を採し、長州藩大目付・長井雅楽の幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退けることに。
このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定。 同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外に。
ほどなく、欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が、長州藩開明派上層部において定着。
そして、1863(文久3)年5月8日、長州藩から英国への秘密留学生5名[井上聞多のちの馨、伊藤俊輔のちの博文(劇団ひとり)、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助]による"長州五傑"(のちの長州ファイブ)が横浜から出帆するきっかけづくりに陰ながら尽力へ...。
しかしながら、同年5月12日、小五郎や高杉晋作(高良健吾)たちのかねてからの慎重論にも関わらず、朝廷からの攘夷要求を受けた江戸幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争へ。
結局のところ約2年間続くが、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した江戸幕府が英米仏蘭に賠償金を支払うということで決着。
5月、藩命により江戸から京都へ。
京都で久坂玄瑞・真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指すことに尽力するものの、あの1863(文久3)年8月18日の"八月十八日の政変"、1864(元治元)年6月5日の"池田屋事件"、同年7月19日の"禁門の変"へ...。
1864(慶応元)年7月23日、朝廷が幕府へ対しての長州追討の勅命を下して以後、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになったことで、幾松や対馬藩士・大島友之允の助けを借りながら潜伏生活に入り、やがて京を離れて但馬の出石へ。
これまで藩政権の座にいた長州正義派は下野。
以来、代わって座に就いた長州俗論派が正義派の面々を徹底的に粛清へ...。
しかし、同年12月15日、高杉晋作率いる正義派軍部が反旗を翻し、軍事義挙(功山寺挙兵)が成功、俗論派政権による政治は終焉へ。
この後、潜伏を察知した高杉晋作・大村益次郎たちによって、小五郎は長州藩の統率者として迎えられることになり、長州政務座に入ってからは、武備恭順の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革に邁進。
やがて1866(慶応2)年1月22日、長州藩の代表として京へ出向いて、薩長同盟が締結へ...。
以後も、度々会談を繰り返し、薩長同盟を不動のものにすべく尽力。
そして、薩長同盟を介した秘密貿易での武器や艦船の購入に伴い、近代的な軍制改革が施されていた長州藩の士気の高まりの中、1866(慶応2)年6月7日からの第二次長州征伐では幕府軍を撃退へ...。
1868(明治元)年より明治新政府の時代となり、右大臣の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ、ただひとり総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者に。 太政官制度の改革後、外国事務掛・参与・参議・文部卿などを兼務していく。
以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続けて、五箇条の御誓文、マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立、軍人の閣僚への登用禁止、民主的地方警察、民主的裁判制度など極めて現代的かつ開明的な建言を通して、明治政府に実施させたという。
並行して、現在の国会の衆議院に相当するようなものを模索し続け、その必要性を訴え続けて来た木戸自身が環境を整備、時期を見計らった上で、第1回の地方官会議[1875(明治8)年6月20日~7月17日]を、自ら議長として挙行したことも...。
このとき採択された5法案は、地方警察、地方民会など地方自治の確立を促進する法案。
しかしながら、のちの内務省の台頭により、いずれもそのままの形では実施されなかったらしく...。
前後して、幕末以来の宿願である開国・破約攘夷つまり不平等条約の撤廃と対等条約締結のため、1871(明治4)年11月12日から1873(明治6)年9月13日までにかけて、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国を回覧する、岩倉使節団の全権副使として加わり、欧米の進んだ文化だけでなく、民主主義の不完全性や危険性をも洞察して帰国。 これまでの開明急進派の立場を改め漸進派に。
ただ、大久保利通との間には、微妙なすれ違いが生じるようになってゆくらしく...。
版籍奉還においては一致協力となったものの、兵制改革や官制改革など封建制の解体を目指す木戸に対し、大久保は副島種臣らと共に保守的な慎重論を唱えて...。
やがて、1873(明治6)年10月半ば、征韓論と西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題に端を発した"明治六年の政変"により、西郷はじめとする留守政府組は下野へ...。
大隈重信や西郷従道らが主張する台湾出兵には一貫して反対していたものの、出兵が決定された1874(明治7)年5月には、これに抗議して参議を辞職することに...。
しかも、欧米の洞察からの帰国以来、原因不明の脳発作のような持病が一気に再発・悪化。
持病のためか、木戸は以後、本格的に明治政府を取り仕切れなくなってゆく。
1877(明治10)年2月15日、西南戦争が勃発。
木戸はすぐさま鹿児島征討の任にあたりたいと希望。
大久保は西郷への鎮撫使として勅使の派遣を希望。
伊藤博文はこれらに反対し、結局国軍が出動、木戸は明治天皇とともに京都へ出張。
だが、かねてから重症化していた病気が悪化。明治天皇の見舞いも受けるが、5月26日、朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後に生涯を閉じてゆく。
享年45歳。
2月1日日曜日放送の第5回より初登場になるのか...。
中盤において、野山獄に入獄となった寅次郎へ書物を届けるため蕎麦屋で待ち合わせた小田村伊之助(大沢たかお)との対面から。
ほかの藩士からの絡みによる一触即発を察して、伊之助に逃げるよう勧めるらしく...。
後に揶揄されることになる"逃げの小五郎"を、どのような形で魅せることになるのかも、気になるところ。
そして、11月8日日曜日放送の第45回も...。
演じるは、あのジャニーズ事務所のアイドル3人組・少年隊で脚光を浴びた、東山紀之。
1987(昭和62)年から流行した"しょうゆ顔"の代表格として名前が挙がり、1988(昭和63)年に"しょうゆ顔"の代表で流行語大賞の流行語部門・大衆賞を受賞。
ジャニーズ事務所のタレントとして、初めて本格的な時代劇に進出して以来、これまで初挑戦の時代劇で演じた沖田総司に始まり、源義経、浅野内匠頭、松平容保、藤原道長、足利義満、大岡越前などの歴史上の人物や、光源氏を演じるまでに。
そして、1993(平成5)年放送のNHK大河ドラマ『琉球の風』では、(オリジナルストーリーかつキャラであるものの)主演、すなわちNHK大河ドラマの主演を初めて務めたジャニーズタレント。
1999(平成11)年放送の『元禄繚乱』で浅野内匠頭を演じて以来、16年ぶりとなる通算3回目の出演か...。
ジャニーズ事務所の後輩タレントとの関わりにおいては、SMAPの中居正広とTOKIOの城島茂が、デビュー前に東山宅に居候。2人が東山宅を出ると、今度はTOKIOの山口達也と国分太一、さらに途中から松岡昌宏も新たに加わり、3人同時に居候していたことも。
また、V6の坂本昌行は東山の付き人をしていた時期があり、ほかにはKinKi Kidsの堂本光一など多くの後輩たちと親交があり、面倒見の良い先輩として慕われていることに。
特に、幼少より母親が仕事をしていたこともあり、家事手伝いはもちろん、小学生の頃から料理も手伝うようになり、忙しい母に代わって夕食の準備をすることもあったという。そのおかげで料理の腕はなかなかのもので、『Duet』誌上で自作の料理を披露する連載ページも持つまでに。
合宿所時代には、近藤真彦など先輩たちにも料理を振る舞うこともしばしばで、現在でも後輩に手料理を振る舞うことがあるという。
この度演じる木戸孝允も、後輩に対して非常に親切。
木戸の家には、彼の在宅日には10人位が集まって夜食をとるが、その時はさまざまな料理が提供されていたというから、『花燃ゆ』ではどのように魅せてくれるのか、というのは贅沢な期待???
木戸孝允の人となりとなれば、正直真面目な人であって、雄弁滔々、奇才縦横であるが、併しなかなか誠実な人とのこと。
2014(平成26)年1月下旬より放送のNHK BSブレミアムのスペシャル時代劇『大岡越前』での主演・大岡越前守忠相にも近いところあったりして。
改めて振り返ってみようかなあ。
2014-11-25 |
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