花燃ゆ あらすじ ネタバレ 第10回
3月8日日曜日の放送では、いよいよ学びにおける新たなる門出を垣間見るかのよう...。
1857(安政4)年2月、江戸湾警備のため相模に派遣されていた時に出会った来原良蔵(松本実)の紹介により、伊藤利助(劇団ひとり)は、寅次郎(伊勢谷友介)の幽囚室での学びを受けることとなった。
周防国熊毛郡束荷村字野尻の百姓の生まれで、貧しさゆえに親戚を転々とする生活の中で、萩では吉田稔麿(瀬戸康史)と同じ久保五郎左衛門の塾に通ったこともあるとか...。
12歳頃から奉公に出され、父・十蔵が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子に。 やがて1854(安政元)年に、武兵衛が周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名。 それに伴い、十蔵・利助父子も足軽となり、今日に至ったという。
寅次郎は「君の志は何ですか?」と尋ねたところ、この時17歳の利助は、人懐っこい笑顔で答えた。
「立身出世です」
新たに加わった塾生のために、台所にいそしむ文の元に、ふさ(小島藤子)が訪ねて来た。
兄・稔麿の、かねてから望む江戸遊学に関して、貧しさを理由に行けなくなるのではと気が気でない様子が気がかりとして...。
それから間もなく、農作業にいそしむ寅次郎を手伝う文は、稔麿の江戸遊学のために何かできないか尋ねた。
しかし、寅次郎は、「天才の苗を助けて長ぜしめざる者寡なし」、すなわち大きく伸ばそうと無理をさせれば害になる、としてなかなか取り合わないまま。
やむなく叔父・文之進(奥田瑛二)に尋ねたところ、伊之助(大沢たかお)の仕える長州藩右筆・椋梨藤太(内藤剛志)に取り付くしかないだろうと無情。
文はひらめいた。 これからの長州藩として国を動かす人材育成と、吉田家の汚名返上を好機として、寅次郎に上申書提出を促してみることを。
すぐに寅次郎の名の上申書が椋梨邸に。 目を通した当の藤太は苦い顔。
伊之助は藤太の胸の内を察するなり、仕えるにあたっての藤太との約束通りに、寅次郎の刀の鞘となるべくことにあたる旨を伝えて、椋梨邸を後にした。
ほぼ同じ頃の幽囚室にて。
寅次郎の見守る中、塾生たちがフグを前にして、フグ食禁止のあり方をめぐって意見を戦わせていた。
萩の近海ではフグがたくさんとれる上に美味しいのに、フグ毒ゆえに禁止にするのはもったいない、いや禁止すべきだ、との丁々発止のやりとりが...。
議論の熱は高まり、度胸試しに食べるか、いや毒を抜いた上で食べるか、といった応酬の中、文に連れられた魚屋の松浦亀太郎(内野謙太)が現われて...。
そろそろフグを返してほしいと頼まれたために、フグ食を期待していた塾生は、一気に意気消沈してしまった。
やがて季節は秋...。 利助もここでの学びと台所の文の手伝いにも慣れた、ある日のこと...。
晋作(高良健吾)は、江戸遊学の恋しい稔麿を見かねて、江戸での戦を教えるとして誘った。
揉め事の気がかりな玄瑞(東出昌大)と玉木彦介(冨田佳輔)は、見張るかのように行動をともにする。
心配な文から頼まれた利助は、様子見のため後を歩くことに。
たどり着いた先は、多くの料理茶屋や食事処のならぶ歓楽街。
晋作は、このような誘惑に負けて学問をおろそかにすることのないようにと、稔麿に尊大そうな物言い。
玄瑞は不服そうだった。
晋作が仲間を引き連れる形で、なじみの料理茶屋に入り、いつもの座敷で料理を前に、稔麿の門出を祝いに。
宴はすすみ晋作が三味線を手に長唄を披露。 そこへ、隣にいた藩重臣・周布政之助(石丸幹二)が酒気を帯びたまま乱入して...。
長井雅楽(羽場裕一)が泥酔する政之助を支えながら口にするには、罪人の私塾からは江戸には行かせられないと、藤太からの横槍があったとか...。
言葉を失った稔麿は、勢いのまま急ぎ足で戻って、悔しさを寅次郎に訴えた。
しかし、江戸に出なければならない理由に関して寅次郎から尋ねられると、明確に答えられないまま。
さらに「己を突き詰められない人間が江戸に出向いても無駄だ」と駄目押し。 稔麿は意気消沈してしまった。
寅次郎の突き放しに憤った晋作と玄瑞は、伊之助の元へ出向いた。
そこでも答えは同じだった。
ただ、将来のために、何ができるのか、藩を国をいかに動かしたいのか、という強い思いと行動があれば、ことを起こしてもいい、とだけ伊之助は口にして...。
明くる日より、稔麿が寅次郎の元へ通わなくなった。
文は心配だった。
そんなある日、町へ向かおうとする稔麿を目撃した文は、そのまま後を付けることに。
たどり着くは、浜崎という港町。
廻船問屋の正面の港に横付けの、江戸帰りの廻船から降りてきた人たちに、いろいろと話を聞いているらしく、一息ついた稔麿に文が尋ねた。
稔麿は打ち明けた。
あらゆる藩からの人たちの集まる江戸での暮らしぶりを寅次郎に伝えたいこと、江戸での学びをもって将来の藩と国に活かしたいことを。
文は安堵し、稔麿の 聞き取りを終えるのを待った上で戻ろうとしたところだった。
すれ違った明倫館通いの武士から言いがかりをつけられてしまう。
文と稔麿が武士たちから押され気味になり追い詰められる寸前、晋作と玄瑞が止めに入った。
彦介と利助も、それに釣られる形で、武士たちと取っ組み合いに...。
事を知った文之進は、正座する晋作たちを厳しく叱責。 身勝手な動き一つで潰されることもあり得る、と。
寅次郎は罪人の身の上にあることを晋作たちに詫びた上で、将来のために藩と国にどうあってほしいのか、どう変えたいのかを、改めて考えてほしいと、切々と訴えた。
そして、伝えた。
「諸君、狂いたまえ」
寅次郎の言葉に動かされることとなった晋作と玄瑞と彦介と利助そして稔麿は、明倫館へ出向いた。
すぐに学頭・山県太華(藤田宗久)と押し問答。 藤太も騒然とした様子に黙っていなかった。
あいにくその日は、藩主・毛利敬親(北大路欣也)による明倫館書物蔵ご視察の日だった。
案内する伊之助に伴われた敬親が現われ、皆は平伏。
晋作たち切々と口にした。 江戸行きにあたっての将来の藩のため国のために尽力したい旨を...。
畳み掛けるように伊之助も、将来の国のためとはいえ道を踏み外してしまった寅次郎なりの罪滅ぼしであることを後押しして...。
敬親は「そうせい」と稔麿の江戸遊学を認めた。
ことが治まり、利助は先の幽囚室でのフグにまつわる問答を振り返ってみた。
寅次郎がフグを食べようとしないのは、志を果たせないまま死ぬことを恐れているからだ、と。
文と利助を前に、寅次郎は打ち明けた。
フグを食せるようになるのは、事を成した後の一つの目標に過ぎないこと、志の果ての死は恐れずも、志以外の死を恐れていることを...。
文には兄・寅次郎の行く末が不安だった。
それでも、寅次郎と利助が心からの師弟の関係になれた瞬間を目の当たりにして、安堵することに。
出立の日、稔麿は文に礼を伝え、江戸遊学がなかったら嫁として貰っていたかもしれないと告白。
そして、仲間からの温かみを背に、旅立っていった。
それから時は流れて、1857(安政4)年11月、杉家の裏庭にある納屋が改築されて、八畳一間の松下村塾が誕生へ...。
そこへ、一人の若者が入門した。
長門国土原村出身の前原一誠(佐藤隆太)だった。
いよいよ松下村塾誕生か...。
この度の幽囚室の学びにおいて印象深かったのは、やはりフグ食のあり方について....。
現代ならば下関経由での購入により、変に気にすることもなく、じっくりと堪能できるようになったものの...。
何と言っても、迷信や縁起担ぎへのこだわりの強かった遠いいにしえのこと、大多数の人たちは、フグ毒の問題から「フグ」を「不遇」あるいは「不具」につながるとして忌み嫌う傾向の強かったとのことで...。
ところが、下関や北九州などに長きに渡って暮らす人たちは、縁起を担ぐ意味合いから、「福」につながる「ふく」と呼ぶことの多かったとか...。
大多数の人たちに抗うかのように、下関や北九州での考えが、長きにわたる歳月を経て、より広まってくれて、本当にありがたいもの。
特に、山口県長門市仙崎にある、仙崎漁港直結の魚介専門料理店「山口ふぐ本舗きらく」からのフグ料理...。
格別な味わいゆえに、人気は一過性に終わらないところがあって...。
家族や仲間で寄せ合って心を温めたくなった時に、思う存分堪能できる『トラフグセット』。
「7-8人前」、「5-6人前」、「3-4人前」、「2人前」....。
さすがに迷うばかりで、相変わらずお恥ずかしい限り。
それでも、ふぐ処理師免許取得者でもある現役の板前による、新鮮なフグの厳選と熟練の技を駆使しての調理と販売と出荷までの「製造直売」には、まさに頭の下がる思いでいっぱい。
現在においても、フグは下関近海のみならず、それ以上の数の天然物・養殖物ともに日本全国や中国や韓国などの海外からも、集積地として下関に集められ続けている。
なお、この第10回での伊藤利助は、まだ一介の足軽に過ぎない身の上。
のちに伊藤俊輔、さらに明治維新を経て伊藤博文として改名、それに伴う新政府の重責を担うこととなって、しばらく後に下関を訪れることになるんだよなあ。
晴れてフグ食を堪能することとなって、その美味しさに感心したことで、山口県のみでのフグ食を、最初に解禁する運びになるとのことだけど...。
後の放送回でも描写されることになるのかなあ。
実現ならば、どのような描写となるのか、ますます気になるところ...。
2015-01-30 |
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