花燃ゆ あらすじ ネタバレ 第20回
5月17日日曜日に放送。
1862(文久2)年4月、薩摩藩国父・島津久光が兵を率いて上洛した。
この時の朝廷は薩摩藩と一橋慶喜と越前藩主・松平春嶽による公武合体派の影響力の強さあって、長州藩の航海遠略策は海外との交易を認める穏健な内容から、尊王攘夷の気運の高まりの中では、影の薄くなりつつあった。
京の藩邸における御前会議にて、周布政之助(石丸幹二)が藩主・毛利敬親(北大路欣也)に破約攘夷への藩論転換の旨を主張。
航海遠略策を重視する長井雅楽(羽場裕一)は反対するも、伊之助(大沢たかお)は悠長ななりゆきで国も御公儀も毛利家もなくなってしまったら、元も子もないと主張。 さらに、この時謹慎中の久坂玄瑞(東出昌大)の記して志士の間でも愛読されつつある『廻瀾條議』と『解腕痴言』と題した時勢論を、敬親に上提する。
以上が決め手となって、藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更となり、玄瑞の謹慎も解かれることとなった。
その知らせは瞬く間に杉家に届いて、安堵することとなった文(井上真央)と弟・敏三郎(森永悠希)は、上海視察を終えた直後の高杉晋作(高良健吾)が土産を渡したいと妻・雅(黒島結菜)から知らされて、数年ぶりに高杉家へ招かれる。
晋作は招き入れた部屋の床に、上海からの土産を披露した。
敏三郎には西洋の筆を与え、女性向けとしては、汕頭(スワトウ)の女性たちによる伝統的な手工芸を異人たちの愛用品に施したことで改めて注目されることになった、スワトウ刺繍の成り立ちを紹介。
文にはスワトウ刺繍のハンケチーフを、雅には同じく刺繍の施された西洋の品のいい手提げを、それぞれ与えた。
しかし雅は、夫を守るためとして、短筒(現代でいう拳銃)を欲しがった。
それでも、晋作は気にかけることなく自身の懐にしまう。
そこへ、父・小忠太(北見敏之)が怒鳴り込んできた。 軍艦一隻買い取りの値の記された勘定書を見せつけるなり、藩を潰す気か、と。
晋作は意に介することなく、気まずさを察した文と敏三郎の後を追うように高杉家を出ると、玄瑞への言伝を頼まれた文に雅を託すなり、藩主・敬親のいる京へ向けて、急ぎ足で出立。
数日を経て、文は亡き寅次郎の部屋で汕頭の歴史を改めて調べ始めた。
そこへ、ふさ(小島藤子)が訪ねるなり、兄・吉田稔麿(瀬戸康史)が京にて無事であることを、喜びながら伝える。
さらなる喜びに杉家は沸く反面、梅太郎(原田泰造)の妻・亀(久保田磨希)だけは、内職の手伝いをしている雅に釈然としない思いに。
雅曰く、晋作がいなくなって以来、小忠太からの小言が多くなっていたたまれないゆえに、内職をしている時だけが気分転換になるとのこと。
そこへ久米次郎の手を引いて寿(優香)が、長男・篤太郎(外川燎)を探しに訪ねて来た。
文が幽囚室へ導くと、書物を手にしていた篤太郎が...。
寿は篤太郎に、どうして明倫館を無断で休むのかと、厳しく叱責。
しかも、篤太郎が「学を言うは志を主とする」という寅次郎の教えを口にしたために、寿の表情がより険しくなって...。
二人を見かねた文は、篤太郎を明くる日に戻すから、一晩預りたいと寿に願い出た。
寿が去ってほどなく、文は松下村塾にまつわる書物を篤太郎に貸した。
ほぼ同じくして、京の藩邸到着した晋作が敬親と対面。 長州一藩だけでも立ち上がって意志表示すべきとの主張。
それから間もなく、料理屋にて政之助と晋作と玄瑞と稔麿が会食へ。
玄瑞は、藩主・敬親に言い過ぎなのではととがめるも、晋作は上海での異人の非人道ぶりを目の当たりにした悔しさをぶちまげるのみ。 同志団結して藩を動かし正々堂々たる攘夷を実行させようとするありきたりなやり方が亀太郎(内野謙太)を殺したと、逆に玄瑞を非難するだけ。
玄瑞はいたたまれなくなって、ひとり廊下に出るなり柱に怒りをぶつけるも、涙が止まらない。
そこへ、通りすがりの芸妓と遭遇、一瞬目の合った玄瑞は気に留めなかったが、芸妓は違った。
その日の相手となる男から、土佐の人間と関わりのある長州の久坂玄瑞と聞かされた芸妓・辰路(鈴木杏)は、なぜか目を輝かせて...。
一方、京の藩邸では、敬親と伊之助(大沢たかお)が、思うことを話し合う。
誰もが日本国に長州に想いを馳せるのに、どうしてこんなに隔たりがあるのかと嘆く敬親に、異国の言いなりで結んだ条約に民は苦しめられているゆえ破約攘夷を実現すべしと、伊之助は助言。
敬親は、長府と徳山と清末と岩国の4つの支藩の説き伏せを、伊之助に命じた。
数日を経て、畑仕事から戻ってきた文の元に、雅が訪ねて来た。
晋作からの文に藩主・敬親が寅次郎の言葉を聞きたいとの件の記されていることに感激したらしく、すぐに晋作に寅次郎の書物を明倫館に認めさせるよう働きかけると、心躍った。
杉家の皆は、吉田家再興の好機と喜びに。
しかし文だけは、藩主からの命よりも篤太郎のような自ら学びたい子どもたちを増やししたい想いと、雅の高飛車なやり方に釈然としない不満がないまぜのまま。
それでも、母・滝(檀ふみ)からの、寅次郎のためを想う気持ちの嬉しさを受け止めた方がいいとする慰めと、雅の好きなヘチマの水の減り具合のひどさの不満な口ぶりに、文はなぜか笑顔に。
ほぼ同じ頃、京の料理屋では、玄瑞と稔麿と前原一誠(佐藤隆太)が、朝廷の尊皇攘夷派の公家・三条実美(上杉祥三)に接触。 同じく尊攘派で内大臣を務めた父・実万が、安政の大獄で排除の上病死した経緯から、攘夷実行の勅使にふさわしいとみなした上での会食だった。
玄瑞は料理を勧めるも、実美はなかなか箸をつけようとしない。
そこへ、かねてから目配りしていたかのように、芸舞・辰路が入るなり、実美の口の中にはおできのあることを伝えて...。
思わぬ再会に玄瑞は驚くも、すぐに真意を察するなり梅干しと茄子を注文する。
自身が"医者坊主"と揶揄された経緯を自嘲気味に伝えながらも、玄瑞は実美にうがいをさせて黒焼きの梅干しと茄子のヘタをおできに貼りつけた。
そして、実美は快く料理を口に運び、会食が快く進むこととなって、それを後押しするかのように、辰路が三味線を披露。
以上が功を奏して、玄瑞は幕府に攘夷実行を働きかける朝廷の勅使としての実美の一行に同行することとなった。
会食の終わった廊下の片隅で、玄瑞は辰路に礼を伝える。
辰路は、桂小五郎(東山紀之)に尽くす芸妓・幾松のように、ぜひ尽くしたいのが夢と告白。
玄瑞は当惑しつつも、妻のいることを理由に拒絶。 それでも、亡き寅次郎の夢を実現させる足掛かりになれることと、自身への陰ながらの支えの嬉しかったことを口にして...。
ただ、この時の玄瑞は、辰路が公武合体派の薩摩藩士と通じていることを、まだ知らない。
10月、攘夷実行を促す勅使となった三条実美・姉小路公知一行とともに、玄瑞たちは江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫る。 時の第14代将軍・徳川家茂からは、翌年上京し返答するとの勅旨を受け取ることとなった。
伊之助は破約攘夷受け入れのため、岩国藩に出向いて藩主・吉川経幹(寺十吾)と対面。
ところが、椋梨藤太(内藤剛志)がすでに先回り。
伊之助は藤太から牽制されながらも、1600(慶長5)年の天下分け目の関ヶ原の合戦後の毛利家から吉川家への冷遇の経緯を語った上で、破約攘夷受け入れと引き換えに藩主・敬親からの家格引き上げを持ち出すことに。
結局のところ、岩国藩では同意に至ったものの、支藩で有力な長府藩は藤太の息のかかっているゆえに、容易ではなかった。
三田尻の仮住まいにて、伊之助は実兄・松島剛蔵(津田寛治)とともに、酒を酌み交わして思うことを語り合った。
悔しさをにじませる伊之助は、幼少の頃にケンカに負けた自分のために仕返ししてくれた剛蔵への憧れを語り、この時洋学所で海軍総督と祭り上げられている息苦しさいっぱいの剛蔵は、藩命で出向くことになった江戸で大暴れさえすれば、必ず時は来ると励ます。
一夜明けて、志を果たすことを伊之助と誓い合った剛蔵は、江戸へ出立した。
そして、伊之助の長男・篤太郎は、友人・栄之進を連れて松下村塾を訪ねる。
ともに「講孟余話」を写本しながら学ぶ姿が、子どもたちに広まるかのように、一人一人増えることとなり、おにぎりをつくる文を手伝おうと、ふさとすみ(宮﨑香蓮)も加わって、塾は少しずつ賑わってゆく。
そして、琴の教授を終えた雅も訪ねてきた。
晋作のいる江戸に行きたいと打ち明けた雅に、文は上海土産のスワトウ刺繍の異人から求めの高まりを引き合いに出して、塾生不在の松下村塾を守るためにも、「村塾の双璧」と讃えられた晋作と玄瑞それぞれの妻が先頭に立てば、ともに夫に尽くせるとともに、これからの長州藩の子どもたちに教えを広められると説得。
雅は思い留めることとなり、文と分かち合った。
二人の姿を陰ながら見届けた伊之助は、意を決して長府藩に出向くなり、方々の藩士たちを集めての語りかけを試みる。
幸い、将軍・家茂上京の旨はすでに広まっていたことあって、長府藩は破約攘夷を受け入れに時間はかからなかった。
後日、伊之助は藩邸大広間での報告を終え、褒美を尋ねてきた敬親に、吉田家再興を願い出る。
吉田家再興の知らせは瞬く間に杉家を賑わせることとなって、文は一人幽囚室へ。
肖像画とともに飾られている寅次郎の遺品の小太刀と硯とボタオを前に、涙ながらに報告文は、感無量だった。
一方、塾生の集結した江戸では、引き上げた勅使一行と入れ違いで到着した剛蔵を前に、今すぐ異人を斬るべしとする晋作と、順序を経ての攘夷実行を第一とする玄瑞との反目が、相変わらず続いていて...。
資金集めを終えて戻った井上聞多(のちの井上馨)[石井正則]と歩調を合わせるかのように、伊藤利助(劇団ひとり)が反目する二人を取り成すこととなり、大工に尽くすなじみの女から仕入れた普請中の英国公使館の図面を広げると、焼き討ちを持ちかける。
玄瑞は当初ためらうも、「お前なしでできるか」とする晋作に引きずられるかのように、塾生とともに外出へ。
1862(文久2)年12月12日、江戸・品川の御殿山に普請中の英国公使館は、焼き討ちされた。
あの1840(天保11)年8月からの英国艦隊砲撃に端を発して、1842(天保13)年8月29日の南京条約調印に至るまでの、第一次阿片戦争を振り返ってみて...。
結果として、日本全土はもちろんのこと、特に大陸に真近な長州藩の危機は計り知れないものに...。
それゆえの、やや急進的(?)になりがちな攘夷運動が展開されることに...。
1985(昭和60)年3月発売の『実録アヘン戦争』(陳舜臣/中公文庫)と、2014(平成26)年1月発売の『アヘン戦争の起源 黄爵滋と彼のネットワーク』(新村容子/汲古書院)、改めて目を通してみると、奥深いだろうなあ。
特に、現在の中国にまつわる問題として、何をもたらす結果となってしまったのか、という点において...。
それでも、「災い転じて福となす」(?)の心でつくり上げた、【汕頭(スワトウ)刺繍テーブルクロス】と【汕頭(スワトウ)刺繍ハンカチ】、素晴らしい。
平和に暮らせる人たちの願いを込めて、永遠に継がれてほしい宝物でありますように。
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