花燃ゆ あらすじ ネタバレ 第21回
5月24日日曜日に放送。
1862(文久3)年、吉田家の再興が認められた。
杉梅太郎(原田泰造)の長男・小太郎が、6歳にて吉田家に養子に出されることとなって、杉家の皆は感無量に。
ほぼ同じ頃、京に茶屋においては、入江九一(要潤)と寺島忠三郎(鈴木伸之)と久坂玄瑞(東出昌大)が、第14代将軍・徳川家茂の上洛の手筈を整えるために最後の打ち合わせへ。
そこへ、芸妓・辰路(鈴木杏)が入るなり、御酌の準備。 すかさず玄瑞に目をやるなり、羽織の袖先から糸がほつれていると口にすると、そのまま袖先を口に加えtて、玄瑞を困惑させる。
明くる日より、松下村塾において、文(井上真央)から子どもたちへの『孟子』の教えが始まった。
その日を終えて、寿(優香)が次男・久米次郎(太田琉星)を連れて訪ねてきた。
亡き寅次郎の墓が小塚原から若林村へ移されたとの知らせを伝えて、互いに安堵するものの、もう一つの知らせには、呆れることになって...。
それは、去る1月5日のことだった。
馬に乗った高杉晋作(高良健吾)を先頭に寅次郎の塾生と寅次郎の座棺を担ぐ人夫の一行が、上野・不忍池から広小路まで流れる忍川に架かる3本の橋のうち、中心に架かる御公儀のみ許される橋を通ったという。
幕吏が厳しく咎めても「長州藩・高杉晋作」と堂々と名乗って、そのまま通り過るといった傍若無人な振る舞いだったとか。
それでも、伊藤利助(劇団ひとり)とすみ(宮﨑香蓮)の結婚話には、心を明るくさせてくれた。
3月31日、229年ぶりに江戸からの征夷大将軍上洛。 ほどなく孝明天皇の上賀茂神社での攘夷祈願のための行幸に随行した時の将軍・徳川家茂の一行に向かって、晋作が「よっ!! 征夷大将軍!!」と声掛け。
困惑はあったものの、天皇の御前で楚々のできないゆえ、一行に乱れはなく事なきを得たが、後に知った玄瑞は、少しずつ積み重ねてきた攘夷実行のための手筈を壊すものと、怒り心頭。
相変わらず晋作は意に介さない一方で、京都守護職に任命された会津藩主・松平容保と会津藩兵1,000名が到着。 次の石清水八幡宮神前における天皇から将軍への節刀の儀が肝心と、玄瑞たちは気持ちを新たにする。
その夜の京の花街の料亭では、周布政之助(石丸幹二)と桂小五郎(東山紀之)と晋作が会食に。
辰路が入るなり晋作が取り付こうとするも、小五郎からは玄瑞をひいきにしていると止められ、酒の入った政之助からはことを起こすにはあと10年待てとたしなめられて...。
晋作は憤りのまま料亭を後にした。
そのまま萩へ帰着した晋作は、出家しての10年間の暇を宣言。 すぐさま、寅次郎の遺髪の収められている団子岩の近くの庵での隠居の準備へ。
知らせに驚いた文と弟・敏三郎(森永悠希)が、急いで団子岩の近くの庵へ出向いたところ、すでに剃髪した晋作と妻・雅(黒島結菜)が家財道具を運び終えていた。
晋作は、攘夷実行のためとはいえ、玄瑞の行う京の公家と豪商への根回しが、腐れ役人そのものと不満顔。
文と雅が諭したことで、晋作はどうにか納得することになったものの、話の流れの勢いあって迂闊にも雅からの、玄瑞が京の芸妓にもてるとの言葉に、文は胸騒ぎを覚え始めて...。
京では、孝明天皇による石清水八幡宮行幸の出鼻をくじくかのように、公武合体派の越前藩主・松平春嶽の国元引き上げに加え、一橋慶喜が家茂の病を理由に行幸の取り止めを宣言。
攘夷派の公家と志士たちは暴発寸前の勢いとなり、家茂はほぼ軟禁状態に。
そして、5月10日の攘夷実行の宣言へ。
知らせが早馬で届くなり、伊之助は萩城に登城して、藩主・毛利敬親(北大路欣也)への御前報告。 加えて、政之助の進言である敵情視察を兼ねた英国への秘密留学の内命を願い出る。
数日後、のちに"長州五傑(長州ファイブ)"として讃えられることになる、利助をはじめ、井上聞多(石井正則)と遠藤謹助と山尾庸三と野村弥吉による5人の英国留学生は、江戸に向けて出立することに。
杉家では杉百合之助(長塚京三)から、5月10日の攘夷実行の旨、期日を境に馬関海峡の船の通行の禁止になること、藩庁が萩から山口へ移ることが皆へ伝えられた。
玄瑞の帰着の知らせも耳にした文は安堵することに。
一方、4月25日に山口入りした玄瑞らは、吉田稔麿(瀬戸康史)の探りにより、仮の藩庁が交通の要衝にあたる中河原の御茶屋という長州藩公館にあると知り、急ぎ足で向かうことになった。
そして、当の文は玄瑞の大好物の食を用意して帰りを待ちわびていた。 しかし、訪ねてきた伊之助の話では、帰藩早々より、山口に留まったままとのこと。
文としては、京の芸妓の存在を耳にして以来、いくらか心穏やかでなかったこととあって、伊之助に夫へのこれまでの想いを伝えたいと、御茶屋までの同行を願い出る。
伊之助は、藩主・敬親の奥方の世話役としての仕えを理由として、文との同行を認めて、明くる日に出立へ。
しかし、二人が到着した時には、すでに玄瑞は光明寺へ向かった後だった。
内心困惑する二人の前に、藩主・敬親の妻・都美子(松坂慶子)が出迎えるも、世話役は間に合っていると意に介さないまま。
ますます困惑する二人だったが、唐突に敬親が現われる。
二人が平伏して間もなく、敬親は文を一室に招いた。
敬親は、玄瑞を食禄25石直参の藩士へ取り立てたことを文に伝えた。 その上で、寅次郎の『時勢論』と『幽囚録』の一節を引き出しつつ、志を果たそうとする藩士たちの想いを受け止め、送り出すことの大切さも伝えることに。
敬服した文は、引き上げてそのまま光明寺党を結成して士気を揚げる玄瑞を訪ねることになった。
再会を喜ぶ間もなく、縫い上げた羽織を玄瑞に被せた文は、武運を祈ることを玄瑞に伝えた。
玄瑞は文の想いを受け止め出陣。
誰もいなくなって、文の目から涙があふれた。
夜が明けて早々、異国船が馬関海峡を通りかかることになり、玄瑞の号令で砲撃が開始された。
下関と九州の門司を挟む馬関海峡(現在:関門海峡)か...。
現代的な視点から海の流れを眺めれば、まるで海外にありがちな運河と大河のよう。
あの生き抜くのに必死な時代となれば、敵とみなして砲撃する異国船は、手の届きづらい遥か遠くの存在にしか実感できなかったのかなあ。
それでも、生き抜くために戦火を潜り抜けた後となれば、身近になじめる運河と大河に戻るかのようで、まさに不可思議...。
何よりも、海の幸の恵みがよみがえるともなれば、嬉しいもので...。
1868(明治元)年創業の下関の老舗『赤間酒醸』による、水揚げ日本一の下関産あんこうと、創業以来使い続けている杉樽の香り豊かな手づくり味噌を使用した【下関産 あんこう鍋セット (3~4人用)】や【下関産 あんこう鍋セット (5~6人用)】はもちろん...。
1950(昭和25)年創業の関門ふぐ問屋『ふぐ王』が下関南風泊市場より仕入から製造まで手掛けた【天然・山口産ふぐちり鍋 (5~6人前/1kg)】は、身とアラが一定になるよう一品一品丁寧につくられていて、絶品の美味しさ。
ふぐ料理専門店『下関 関とら』による【とらふぐ身皮しゃぶしゃぶ&ふぐちり鍋セット】は、とらふぐの旨味の凝縮された希少部位"身皮"を使用ゆえに、より鮮度が抜群に。
これらの海の幸が永遠のものでありますように...。
2006(平成18)年10月28日土曜日より山口県・北九州市にて先行公開。 第40回ヒューストン国際映画祭参加映画『長州ファイブ』とともに...。
2015-04-16 |
共通テーマ:日記・雑感 |
nice!(0) |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
編集
コメント 0