花燃ゆ あらすじ ネタバレ 第35回
8月30日日曜日に放送。
幕府征長軍との戦は避けられなくなって、山口城の奥では、都美姫(松坂慶子)を筆頭とする奥女中たちの薙刀の稽古が日課となっていた。
ほぼ同じくして、戦の旨を記した30万枚の印刷物が、長州藩全体の民に向けて行き渡ることになって...。
美和(井上真央)は中﨟格に昇格。 いわゆる改名を許されるまでの地位に上り詰めたものの、義兄・伊之助(大沢たかお)が授けてくれた御守刀としての名前を、変えることはなかった。
3月26日、幕府から、藩主・毛利敬親(北大路欣也)・元徳(三浦貴大)親子と世継・興丸に、広島への出頭の命が下った。
4月13日、伊之助は重臣・宍戸璣とともに藩主名代として出立。 5月1日、国泰寺において幕府名代・小笠原長行は支藩からを含めた名代に対して、それぞれ幕命を伝えた。
長州藩に対しては、藩10万石削減と敬親・元徳親子の幕府預かり、桂小五郎改め木戸孝允(東山紀之)と高杉晋作(高良健吾)の身柄引き渡しの幕命が下った。
しばしの会談の末、速やかに帰国して藩主へ伝え、20日までに請書を出すように命が下されて、璣と伊之助は広島へ滞在するように命じられたものの、会談の際の長州藩の引き延ばし策を思わせる口ぶりが災いしたからか、5月8日に拘束、広島藩預かりとなった。
しかし、すでに1866(慶応2)年1月21日、京都薩摩藩邸において、坂本龍馬(伊原剛志)とともに進めていた薩長同盟締結の後押しあって、長州藩の戦への備えは万全に。
1866(慶応2)年6月7日、幕府征長軍との戦が、のちに長州の人たちによって永く語り継がれることになる四境戦争が、いよいよ開戦。
丙寅丸に乗り込んだ晋作は、海軍総督として奇兵隊を含む諸隊を率いて、周防大島沖に停泊する幕府艦隊への夜襲を仕掛けた。 退けるなり、奇兵隊と諸隊による奇襲も功を奏して、周防大島の奪還に成功する。
怒涛の勢いはとどまることなく、小倉方面の戦闘でも幕府征長軍を翻弄、そして敗走へ追いやることにも成功する。
前後して、美和は奥の裏庭にて、亡き父・百合之助(長塚京三)から譲り受けた種を蒔いて、畑づくり。
そこを敬親が訪ねて、美和と思うことを語り合った。
敬親としては、これまでの藩のために尽くしてきた亡き多くの志士たちのためにも、せめて伊之助だけは精一杯生き抜いてほしいという想い。 美和は心を揺さぶられた。
そこへ、璣と伊之助が山口へ還されることとなったという知らせが...。
1866(慶応2)年7月20日、幕府征長軍の総大将である第14代将軍・徳川家茂が、大坂城にて薨去となった。 満20歳。
開戦当初は、長州勢を圧倒する戦いを見せた幕府征長軍だったが、依然として幕府征長軍総督を務めた小笠原長行の消極的姿勢は改まらず、将軍家茂の薨去を理由に戦線を離脱。 肥後藩細川家を含む諸藩も一斉に撤兵へ。
これで事実上幕府軍の全面敗北に終わることが明らかになって、世の中は大きく変わろうとする動きが...。
長州藩海軍総督・高杉晋作はじめとする海軍・奇兵隊・諸隊をもって総力を挙げた長州藩全軍による、周防大島奪還を皮切りにした快進撃が、いよいよ...。
いかにして描かれるか、気になるところ。
長州藩領である周防国大島。
北は宮島のある安芸灘に、東と南は伊予灘に面した東西に長い防予諸島の一つとして知られており...。
古くからの瀬戸内海海上交通の要衝とみなし、物量において圧倒的優位に立つ幕府征長軍が制圧した後だっただけに、長州藩全軍による奪還は、いわゆる討幕派にとっては大きな弾みとなるもの。
後年聞くところでは、幕府征長軍の勝利に慢心した一部の郎党が、現地の人たちへの乱暴狼藉を働いた後のことだけあって、長州藩全軍の奪還には安堵した模様だったとか。
その経緯あって、遠い将来にわたっていかに時代が変化しても、周防大島の人たちは、時折想いを馳せることになるんだろうなあ。
田中海産の【選べる晩酌セット・清酒 (清酒パック2本+周防大島・田中海産のおつまみ3袋セット)】、
瀬戸内海の鮮魚を扱って50年の「瀬戸内たいたいCLUB」による【周防大島産 地あじ Lサイズ(400g前後)】と【山口県周防大島産もしくは山陰産 天然ヒラメ700g】、
山口県岩国市南岩国町にある「海産物いわくにスカイ&ブルー」の【山口県周防大島産 食べる小魚 150gX2袋】と【山口県周防大島産 自然の味 乾ひじき 50gX2袋】、
それぞれをじっくりと堪能しながら...。
2015-06-21 |
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