真田丸 あらすじ ネタバレ 第13回
「決戦」
4月3日日曜日に放送。
真田氏が上杉氏と手を組み、徳川軍との決戦が間近に迫りつつある中...。
徳川家康(内野聖陽)の家臣・鳥居元忠率いる軍勢は7,000超。
しかし、真田軍は2,000余。 しかも、頼みの綱・上杉氏からの援軍は、100名ほどの老人と子どもばかりだった。
信繁(堺雅人)と三十郎(迫田孝也)は呆然とするばかり。 それでも、上杉景勝(遠藤憲一)が必死でかき集めた援軍だけに、決して死なせるわけにはいかないとの強い決意を固めて、急ぎ上田城へ...。
一方の家康は、羽柴秀吉(小日向文世)の方を警戒。真田氏の動向に関して本多忠勝(藤岡弘、)に一任していた。
なぜならば、浜松城には昌幸(草刈正雄)の弟・信尹(栗原英雄)が捉えられていおり、しかも家康は、信尹の才を買っていた。
家康から託された忠勝は、このまま囚われているか、徳川氏の家来になるかの選択を、信尹に迫る。
神川をはさみ上田城の向かいに陣を張る鳥居元忠率いる徳川軍から、沼田城を明け渡せば兵を退く旨の記した書状が届いた。
昌幸は返事を待たせようと時を稼ぐため、家臣を集めて軍議へ。
昌幸はまな板に餅を乗せて細く長く伸ばすことで、7,000超の軍勢に見立てると、わずかな兵による細い箇所の切り崩しを主張。 それでも、駒不足が唯一の気がかりだったものの、信繁と三十郎が駆けつけたことで、勝利が確信に変わってゆく。
昌幸は、作兵衛(藤本隆宏)と配下の農兵たちに命じて、城下町の大通りのあちこちに千鳥掛けの柵と無数の杭を設けさせる。 敵の軍勢を”細く長い餅”にするために...。
具体的には、信繁の部隊が敵兵を城内へと誘き入れたところを、作兵衛の農兵部隊が側面から叩き、敵兵の動揺とともに大手門を開門。 迷路のような二の丸へ陽動された敵兵を、昌幸率いる本隊が正面から迎撃、信幸(大泉洋)の部隊の追い撃ち。 出相(寺島進)が神川上流の堰を切っての急流復活による退路遮断。 といった手順を踏んだ流れにより、徳川軍の総崩れを導くことにあった。
特に、昌幸、信幸、信繁、それぞれが負ける気がしないと自信満々になりつつあった。
軍議を終え、真田屋敷に戻った信繁は、愛娘・すえとの初めての対面、とり(草笛光子)や薫(高畑淳子)との家族団欒のひとときへ...。
ただ、梅(黒木華)だけ作兵衛(藤本隆宏)たちの隠れ場所となっている寺にいるために、逢えないままなのが、信繁には心残りだった。
堀田村で身を潜める梅も、想いは同じだった。 それでも、軍議から寺に戻った作兵衛から信繁の帰還を教えられた嬉しさから、梅は満面の笑みを浮かべ城へ向かった。
その道中にて梅は、母とはぐれて泣く男の子と遭遇。 頼まれて男の子が家に忘れてきてしまったというお守りを探し出すしたところ、中には小銭が...。
何か思いついた梅は、男の子に頼み込み、そのお守りを銀と交換する。 急ぎ上田城へたどり着いたものの、梅が気がかりで逢いに寺に向かった信繁とは、入れ違いになってしまった。
梅はきり(長澤まさみ)に信繁宛のお守り袋を預け再び寺へ、信繁も寺から再び城へ、それぞれ舞い戻ることになって、またまた入れ違いに...。
きりから事情を聞いた信繁は、渡されたお守り袋を懐に、夜討ちに備えるため兵を連れて河原へ出立。 途中一息ついて、お守りをあらためると、中には真田家の家紋である"六文銭"が...。
信繁は梅の優しさに微笑むとともに、静かに闘志を燃やす。
夜が明けて、信繁も信幸(大泉洋)も準備万端の一方、作兵衛や堀田村の者たちと城下町の路地で待機していた梅は、胸が張ってきたと告げるなり、すえに授乳するために出立。
河原では作戦通りに、信繁が敵を誘い込もうと、六文銭をあしらった旗を振りながら、川向の徳川軍に聞こえるよう、朗々と『高砂』を歌い始めた。
挑発された徳川軍は行軍開始し、怒涛のごとく川を渡りきったところを、信繁の合図で銃兵たちが一斉に発砲、その背後にいる兵士らも一斉に矢を放つ。
世に言う"第一次上田合戦"の始まりだった。
鉄砲による応酬の一段落とともに、信繁隊は城下町に逃げ込むと、追撃する勢いで徳川軍は一気に大手門へ駆け込んだ。
そこへ、横に控えていた作兵衛たちの隊が一斉攻撃。 大通りの入り口には千鳥掛け柵、奥には無数の杭。杭の隙間からの槍と石つぶての投げ付けの嵐。
それでも、怯まず突き進む徳川軍だが、杭が邪魔になり、隊列は5列縦隊から3列縦隊へ、まるで伸ばした餅のように細く長く伸びていって...。
上田城内では、きりの必死に止めるのを振り切って、すえに搾乳を済ませた梅が、再び戦へ向かった。
徳川軍は大手門の前まで押し寄せるも、ついには2列縦隊にまで細くなり、信繁の合図で開門。
真田軍は二の丸へ引き上げ、止まらない徳川軍もなだれ込んだ。
二の丸は迷路そのもの。 隊列は乱れに乱れ、鉄砲や矢の波状攻撃に翻弄、徳川軍は完全に混乱状態となった。
真田軍を優勢に導いた信繁だったが、二の丸から本丸に入る脇門のところで、梅を発見。 つい立ち止まってしまった。
すかさず徳川兵の襲撃となったが、寸前を三十郎に窮地を救われ、梅も脇門から現れた佐助(藤井隆)に救われて、本丸にて待機することに。
信繁は再び徳川軍との戦へ。 本丸へ通じる門まで徐々に退き、袋小路寸前で横に移動した勢いで、本丸開門へ。
堰を切った勢いのごとく、馬上の昌幸と内記(中原丈雄)はじめ真田軍本隊が突撃。 土蔵の壁穴からは、銃兵が一斉射撃。 蔵の上の町民たちからは、煮え湯や石つぶての嵐。退去し城下町へ駆け抜ける徳川軍へ、信幸隊からの迎撃の嵐。
必死で振り切り河原まで退散する徳川軍だったが、上流で水を堰き止めていた仕掛けを昌相が断ち切って、行きとは違う鉄砲水のような急流が...。
徳川軍の兵の多くは急流に飲み込まれて溺死。 残った兵も圧倒されながら退却。 数時間後、真田軍の勝ちどきが城下町に響くことになり、大勝利となった。
しかし、逃げ場を失って敵兵たちは、死にもの狂い。 柵を壊して山へ逃げ込み、作兵衛の部隊が隠れ家としていた寺の周囲になだれ込むことになって...。
信繁が帰着した堀田村には、人びとのおびただしい遺体の山...。
遺体の山を前に放心状態の作兵衛と再会。 そして、泣きじゃくるすえを抱いたきりの姿が...。
きりが話すには、ともに城の櫓にいた梅は、柵が壊されるのを見かねて、村人たちを心配して城を飛び出してしまって、行方知れずのまま。
信繁たちは必死で周囲を探すも、何度呼んでも返事はない。
そして、裏手からの作兵衛の絶叫が...。
駆けつけた信繁が目にしたのは、泥だらけで槍を持ったまま倒れている梅だった。 驚いた信繁がすぐに抱え起こしたが、すでに息はなかった。
信繁は言葉にならないまま。 きりは涙ながらに、すえを育てることを梅に誓う。
"第一次上田合戦"は終焉。
徳川軍の死者は1,300人余に対し、真田軍の死者は50人に満たなかった。
この"第一次上田合戦"の顛末...。
局地的な戦術だけでなく、大局的な戦略にも通じ、また内政手腕にも才能を発揮した昌幸の真骨頂を目の当たりにするんだろうなあ。
それは、やがて信幸と信繁に引き継がれてゆくことになって...。
2014(平成26)年10月7日火曜日発売の『歴史群像デジタルアーカイブス <真田一族と戦国時代> 徳川勢を一蹴! 真田昌幸と第一次上田合戦』(大山格/学研パブリッシング)と、2015(平成27)年2月12日木曜日発売の『上田古地図帖』(尾崎行也・佐々木清司/しなのき書房)に、それぞれ改めて目を通すことはもちろん...。
【信州 上田城~真田丸どーもくんセット~】でのプラモデルづくりをしながら、戦術面での立地状況に関して、いろいろと想いを馳せてみて...。
折しも、"端午の節句"すなわち"こどもの日"も真近ということもあるから、【高岡鋳物 ケース入り戦国武将兜 真田幸村公(真田信繁) (コンパクトながら格調高いケース入り)】、あるいは【高岡鋳物 戦国武将兜 真田幸村公(真田信繁) (金属製兜飾りコンパクトながらどっしり飾れる金属製兜飾り)】を、なじみの幼い甥っ子に贈るもいいし...。
日々の戦に備えるあらゆる人たちへの想いを馳せつつも、【信濃地鶏の美味だれがけ (1食)】や【真田 合戦せんべい 12枚入り 3個セット】を味わってみるのもいいし...。
そして、儚くも逝ってしまった梅をはじめ懸命に生き抜く真田の郷の人たちへの精一杯の想いを馳せて、【信州銘菓とち餅 ふるさとの味わい。 10個入り】を、じっくりと味わってみたいなあ。
忘れないようにしたい。
2016-02-15 |
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