真田丸 あらすじ ネタバレ 第14回
「大坂」
4月10日日曜日に放送。
第一次上田合戦が終わって...。
春日山城に凱旋した信繁(堺雅人)は、景勝(遠藤憲一)から最愛の妻・梅(黒木華)を亡くした痛手を引きずる痛みを共有されて、直江兼続(村上新悟)からは果敢かつ巧妙な戦ぶりを称賛された。
徳川家康(内野聖陽)は敗北を原動力に、再び真田氏との戦を見越しての駿府城改修へ。
昌幸(草刈正雄)は、浜松城に囚われている弟・信尹(栗原英雄)に、家康家臣たちの頭である石川数正(伊藤正之)の調略を指示。 見事に成功し、数正は羽柴秀吉(小日向文世)に寝返った。
家康は衝撃。 徳川家の内情を知り尽くした数正だけに、不安のどん底に叩き落とされるかのように、真田攻めは中止。 撤退を余儀なくされる。
三十郎(迫田孝也)は、いまだ元気がない信繁に徳川氏の撤退を伝え、先へ進むことと、梅を忘れることとは違うと熱弁するものの、信繁の心の整理はまだつかないまま。
肝心の家康は、秀吉の攻勢に怯え食事も喉を通らない日々。
そんな中の1586(天正13)年11月29日、幸か不幸か、世にいう"天正の大地震"が発生。
特に、秀吉の膝元の近畿地方の被害は甚大。 復興が最優先されたことで、戦の立ち消えとなった家康は安堵。 数正離反の仕掛け人と見破った上で、捉えていた信尹を家臣として召し抱えることとなった。
その頃、秀吉は巨大な城・大坂城を築き上げた。
信長の死の衝撃から、中国大返しとともに再起し、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと連勝。 小牧・長久手の戦いで家康と和睦。 今では関白の地位におさまり、豊臣・・天下人の座をほぼ掌中にするまで、わずか4年。 さらなる盤石の地位を求めるべく各地の大名に上洛を求めて忠誠を誓わせるまでに君臨。
それでも、小田原の北条氏政(高嶋政伸)は拒絶し、家康も真田氏との戦を口実に上洛を先延ばししたまま。
昌幸も上洛を求められるも、大名でもないのに上洛を求めたがる秀吉の意図の読めないうちは、動くまいとの考えだった。
同じく上洛を求められた上杉景勝は、挨拶のみで降伏ではないと虚勢を張るものの、実情として大坂行きは秀吉に下ることを意味するも同然なだけに葛藤。
それでも、秀吉に属することで徳川氏や北条氏への牽制となって、国を立て直す時間が稼げるとの算段から、景勝は上洛と信繁の随行を決断。 昌幸との密書のやりとりにて、信繁は秀吉の真意を探ることを求められる。
景勝一行の大坂出立の日を迎え、意気揚々の信繁は、ふと城の庭にて、きり(長澤まさみ)を発見。
きりが打ち明けるには、上田城で梅の忘れ形見・すえの面倒を見ていたものの、育児がうまくいかず、やむなく梅の兄・作兵衛(藤本隆宏)が育てることになったとして、信繁の世話をしたいと大坂への同行を申し出。
二人の押し問答に押されるかよのうに、景勝はあきれつつも、きりの同行を許し、景勝一行は大坂へ出立した。
日をかけて日本海に沿って進み、ようやく一行は加賀に入った。
出迎えたのは、秀吉の腹心・石田三成(山本耕史)。 すなわち、かの上洛は、三成の助言によるもの。 臣従を誓った者には大名としての立場を保証するとし、旧知の仲である兼続を通して、景勝に上洛を持ちかけたのこと。
ほどなく三成は、加賀の峠近くの寺に景勝一行を案内し盛大な宴でもてなす。
三成と兼続は楽しそうに酒を酌み交わすも、少々距離を置いた景勝は浮かない顔のまま。
見計らって信繁を庭へ誘った景勝は、口では義の為に生きると言っておきながら、やっていることは長いものに巻かれているだけの自分のようにはなるなと忠告、代わりにこの世に義があることを示して欲しいと信繁に託すことに。
京に入ると、三成は支度があるとして一足先に大坂へ。 残された景勝一行は京にて待機となった。
その三成の計らいあって、信繁は石川数正と対面する。
数正の家康に対して恩を仇で返したことの後悔を慮って、信繁は先行き不透明さあって、誰もが必死に生きていること、裏切りは善とか悪で計れるものではないこととして、分かち合うことに。
数正は、その後、秀吉の下で信濃松本10万石の大名となった。
翌日、景勝たちは大坂城に登城。
しかし、秀吉への謁見は多忙のため翌日に延期に。
景勝と兼続は大坂城内に、信繁は城下の三成邸に、きりは三成邸の納戸に、それぞれとどまることに。
その夜遅く、信繁が部屋で書物に目を通す中、廊下の向こうの騒々しさが気になって外へ出向いたところ、秀吉の重臣・加藤清正(新井浩文)が泥酔しており...。
清正は、三成にくだを巻きつつも、一緒に野山を駆け回ってた頃の秀吉を懐かしがり、関白殿下は似合わないと冷たく言い放って、そのまま眠ってしまった。
翌日、景勝たちは再び大坂城に登城。
しかし、信繁のみ秀吉の耳に入れてないゆえ謁見できぬと、ひとり部屋に取り残されてしまった。
退屈する信繁だったが、唐突に天真爛漫な若い娘・茶々(竹内結子)が現れて...。 信繁に矢継ぎ早に話しかけると、秀吉が信繁に会いたがっていたと言い残すと、あっ気なく去っていく。
再び静寂となるも、今度は秀吉の家臣・片桐且元(小林隆)が現れるなり、秀吉の元へ案内するという。
三成からは秀吉に会えないと聞かされていただけに、信繁は驚き混乱するだけ。 そのまま案内された場所での待機ほどなく、信繁の前に、ついに秀吉が姿を現すも、屏風の裏側に隠れるという怪しい行動へ...。
"天正の大地震"のみならず、ほかの地震発生前後の秀吉と豊臣家の人間模様には、本当にいろいろとあって、後年の天下の行く末を左右するまでになったという逸話または俗説があるくらいに???
2010(平成22)年1月15日金曜日発売の『秀吉を襲った大地震 地震考古学で戦国史を読む』(寒川旭/平凡社)に、改めて目を通してみるか...。
同じくらいに、見逃せないのが、徳川家康の懐刀だった石川数正の秀吉への寝返り。
その理由は、史実においては、いまだ謎のまま...。
しかも、"天正の大地震"の3週間近く前の1585(天正13)年11月13日、...。
これまでの映画やテレビドラマでの数正を振り返るならば、秀吉に寝返った直後の描写はあっても、以後の生涯に関しては、ほぼ皆無に近い???
いや、信濃松本10万石の大名となり、権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、街道につないでの流通の掌握のための城下町建設、天守閣造営など政治基盤の整備に尽力したという史実を知ったのは、お恥ずかしながら、つい数年前のこと。
城下町・松本か...。
結果として、現代に至る長きにわたって城下町を維持させた、石川数正の功績は静かに浸透していたんだなあ。
2014(平成26)年3月発売の『彦根城、松本城、犬山城を世界遺産に 日本の城・再発見』(五十嵐敬喜・岩槻邦男/ブックエンド)に時折目を通しつつも、【日本の名城 スタンダード版 松本城 プラモデル】を時折手掛けながら、『信州芽吹堂』の【くるみゆべし 14個入(X2箱セット)】と【栗きんとんクリーム大福 20個】を、おやつにするもよし。
『味な安曇野』の【信州 長野県 松本市産 健康米(レンゲ米+五穀米) 2kg(X3)】と【信州麦みそ 3kg(1kgX3個)】と、『ヤマサ』の【安曇野から信州の 打ちたて! 生そば (10人前) (6人前) (4人前)】を、じっくりと食してみるもよし。
このありがたみが永遠でありますように...。
2016-02-20 |
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