いだてん あらすじ ネタバレ 第17回
「いつも二人で」
5月5日日曜日に放送。
治五郎(役所広司)からのベルリンオリンピック中止の報せに、四三(中村勘九郎)は茫然自失、下宿部屋での引き籠り状態に...。
皆の懸命な呼びかけ応えぬ四三に堪りかね、徳三宝(阿見201)が部屋襖を打破乱入、清さん(峯田和伸)も入るも、四三はただ虚空眺めるのみ...。
二人は気晴らしに走ろうと引き出すも、頑固な四三と揉み合いに...。
そこへ、意外や上京早々のスヤ(綾瀬はるか)が、桶の水を四三へ乱暴に叩き付け...。
平静戻った四三は、苦渋の胸中とともに、熊本帰郷なしの旨を告白...。
スヤは辛作(三宅弘城)より自転車借り、四三は足袋履き表出るや、四三の走りをスヤ判定へ...。
夜遅く、下宿部屋泊まりのスヤに、四三は以前の追い返しを謝罪...。
スヤは逢いに来てほしいとの四三に愛しさ。 が、将来自身の走れぬ後のマラソンの未来懸念のみの四三には、呆れ顔のまま...。
翌日、四三は東京高等師範学校の治五郎訪問。 指導者なるべく教職就任の申し出。 自身50人いればいいのにとのスヤの嘆きに触発、50倍の距離走破可能目標、と。 1人10km走行なら500km、1人無理でも50人なら走破可能として...。
マラソンで40kmもの距離走行はつらく孤独でも、団体競技ならばと、治五郎は四三に要望...。
常に相互協力かつ激励の仲間さえいれば、大阪から東京まで走破可能との想像昂じ、治五郎も四三も嬉々あふれて...。・
いつの日か東京から大阪まで走破可能のため、その50人育成のため、教員なるべく四三は、1916(大正5)年に神奈川師範学校(現在:横浜国立大学教育学部)教員就任、地理教授の傍ら、辛作と2人3脚で練習法や足袋の改良の尽力へ...。
三島家若女中・シマ(杉咲花)は、東京女子高等師範学校生徒に...。
ミルクホール仕事継続の中、四三伴い訪問の治五郎からは、女子体育新興を国挙げて尽力の決意、そして激励へ...。
続けて二人が、東京・大阪間のレースの話没頭の最中、読売新聞記者の大村と土岐出現...。
京都から東京へ遷都50周年協賛行事として、新聞社挙げての画期的な運動会として、浅草での運動部の御意見番との会見聞かされた治五郎は、同行の申し出...。
待ち合わせ場所の凌雲閣展望台には、何と天狗倶楽部のヤジ将軍こと吉岡信敬(満島真之介)...。
土岐は景色眺めつつ、東海道五十三次めぐるレースを提案へ...。
壮大なアイデア興奮の治五郎と四三と信敬に向け、土岐は説明。 全体を23区間分割、関東・関西・中部を23人のランナーで516km走行継続の画期的なレースとして...。
そこで、信敬と同席の大日本体育協会(体協)副会長・武田千代三郎(永島敏行)が、東海道の53宿場、つまり"駅"と"伝"って走るから「駅伝」との提案。 皆が賛成へ...。
1917(大正6)年4月27日、東海道五十三次駅伝開幕。 14時号砲、京都三条大橋より、関東軍と中部軍のトップランナーがスタート...。
レース開始から約44時間後の29日10時5分、最終走者の四三は川崎出発...。
ゴールでは大観衆観戦の下、四三到達。 早々より大観衆の大熱狂と同伴かつ走行、「駅伝」絶叫へ...。
結果は関東軍圧勝。 熱狂の下、日本初の駅伝大成功へ...。
直後に熊本帰郷のスヤは、妊娠自覚...。
幾江(大竹しのぶ)は嬉々のまま、金栗家へ。 さすがの四三も帰郷のはず。 池部家安泰と嬉々あふれて...。
この度の四三、現在と近未来...。
2016(平成28)年2月25日木曜日より発売の『お医者さんがつくった脳トレで旅する東海道』(豊田早苗/自由国民社)や、2017平成(平成29)年3月2日木曜日より発売の『お医者さんがつくった脳トレで旅する中山道』(豊田早苗/自由国民社)、それぞれ特有の健康増進兼用の歩き旅はじめ...。
2019(平成31)年3月29日金曜日より発売の『復刻新装版 ランニング』(金栗四三・増田明美/時事通信出版局)の真髄も重複...。
同じく東海道五十三次駅伝...。
起点として、天保年間(1831年から1845年まで)創業、京都府京都市東山区大和大路四条上がる廿一軒町「祇園藤村屋」名物【京漬物盛り合わせ 150g】と【合わせ酢 甘露千鳥 200ml】...。
終点として、1818(文政元)年創業、東京都中央区日本橋「榮太樓總本鋪」名物、1911(明治44)年4月3日開業の日本橋の絵柄で御馴染【榮太樓飴 名橋日本橋缶 2缶入(梅ぼ志飴・黒飴)】...。
じっくり堪能するか...。
オリンピックに込められた平和への祈願とともに....。
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