八重の桜 川崎尚之助 長谷川博己 ネタバレ
いよいよ会津へ。
第3回「蹴散らして前へ」で、魅せてくれました。
1857(安政4)年、川崎尚之助(長谷川博己)がいよいよ会津入り。
この時20歳。
そして、山本八重(綾瀬はるか)との初めての出逢い。
中でも、江戸の空気をまとった"さわやか青年"尚之助、"生粋の会津っこ"八重との掛け合い。
終盤に、禁足となった兄覚馬(西島秀俊)を励ましたいために砲術の習得により打ち込む八重を認めて、優しく見守るくだりが、なれ初めだったのかなあ。
そして、会津藩主・松平容保(綾野剛)の京都守護職就任による覚馬の上洛で留守となり、二人で自然と助け合っていくようになっていったとのことか...。
まあとにかく、
脚光を浴びることとなる、2010(平成22)年秋放送のNHKドラマ10『セカンドバージン』に観られる、主人公の年上女性(鈴木京香)との不倫愛のような泥沼の関係は、ないから安心だ。
[余談ですが、主人公の年上女性の息子役を綾野剛が演じていました。
両親の離婚が原因で反発する一方、愛情に飢え就職もせずに金を無心する役どころ。
長髪に身体の刺青という出で立ちのニートから、放送終了2年後には、会津藩第9代藩主・松平容保公として異例の大出世。
本当に世の中は不思議で面白いもの。]
いずれにせよ、長谷川演じる川崎尚之助に関しては、史料が乏しいのが事実。
八重と夫婦になる決め手は何だったのか?
回を終えることに、少しずつ進展することとなる以上、見守っていこう。
(ネタバレ同然でスミマセンけど)
川崎尚之助は、1837(天保8)年に但馬出石藩(現・兵庫県豊岡市出石町)の医師の子として誕生。
運命の転機は1856(安政3)年、当時の江戸の蘭学者・大木忠益の塾に同じく在籍していた山本覚馬と知り合ったことから。
この時の尚之助はすでに、神田孝平、加藤弘之とともに、江戸の新進気鋭の洋学者として活躍していたゆえ、覚馬から惚れ込んで「会津藩士たちを指導してほしい」と要請されたという。
川崎尚之助の本質とは、次のような考えに集約されるらしい。
「武力を持つものは、初めに讃えられ、次に恐れられ、最後に憎まれる」
そして、会津藩主・松平容保の当初の考えでもある、"言路洞開"。
すなわち、下に降りて互いに意見を交わし合う気持ち。
これからの展開として察しがつくのは、1868(慶応4)年1月から勃発した戊辰戦争を前にしての八重との結婚、そして8月からの会津戦争での大砲隊の指揮。
9月に入っての鶴ヶ城籠城戦の際には、鶴ヶ城の南・豊岡に大砲を設置、城の南東約2kmほどの場所にある小田山(標高372m)に陣取った敵軍を砲撃。
9月22日の会津藩降伏開城後、かねてから山本家と交流のあり、尚之助から砲術の指南を受けていた弟子でもある米沢藩士・内藤新一郎の家屋へ、尚之助・八重夫婦、母・佐久(風吹ジュン)、兄嫁・うら(長谷川京子)、姪・みねが身を寄せることに。
しかし、そこで安堵したのも束の間、尚之助のみ旧会津藩士たちとともに東京へ護送されての謹慎。
京都在住の覚馬には、尚之助の弟子かつ後に海軍文官となる小森沢長政の実兄で、官僚・政治家の宮島誠一郎が、京都に出向いた折に、母・佐久と妹・八重と妻・うらと娘・みねの居場所を連絡していた可能性が。
1870(明治3)年10月、藩の転封先の下北半島・斗南藩へ行くことに。
八重は、母・佐久の意向など何らかの事情で、斗南への同行を辞退。
というより、会津戦争敗戦後の藩士の謹慎先の猪苗代に頑なにとどまろうとする八重の身の上を案じて、尚之助が独断で離別させたのが真相らしく。
そのため、戸籍上は夫婦でも、実際に別れたも同然の状態に。
斗南においての尚之助は、直に藩民との行動と辛苦をともにしていたらしく。
特に、極寒の地ゆえの米の収穫高の少なさから、慢性的な飢饉に悩まされていた。
窮状打開のために立ち上がった尚之助は、米座省三、柴太一郎とともに藩命を受け、アメリカ商人を通じて先物取引の形で収穫予定の大豆を外国米に交換する契約を交わすことに。
しかし、借金を抱えていた米座が持ち逃げしてしまった。
当然アメリカ商人は、契約不成立の責任を斗南藩に問い裁判で訴えるも、尚之助は「藩は無関係」と責任を一身に負い、矢面に立つはめに。
金策と米座の行方捜しもあって、北海道・箱館(現・函館)へ流転することも...。
裁判は東京で行われることになり、尚之助は1872(明治5)年8月以降、東京の身元引受人の元に身を寄せて、法廷闘争を続けることに。
逃亡していた米座は東京で逮捕されて、ようやく手形は戻ってくるも、その間に古米となってしまい、相場が下落してしまったことで、大損害を被ったアメリカ商人から、再度訴えられてしまう。
この間の1873(明治6)年8月に、八重は兄・覚馬の付き添いとして、東京を訪問し12月まで滞在。
史実かどうか不明なものの、尚之助と八重は5年ぶりの再会を果たした可能性もあり得るらしい。
この時の流れを考え前後を見渡してみると、おそらく、史実よりドラマを選ぶでしょう。
八重との感動の再会を果たした尚之助は、一緒に京都へ戻ることを勧められるが、裁判中の保護観察の身の上を慮ったこともあり、自ら心を鬼にして八重に別れを告げることとなるのかもしれない。
それは、8月18日日曜日放送の第33回。
川崎尚之助は世のため人のため動くことに尽力。
そして、かねてからの泥沼化した裁判の続く中、1874(明治7)年ついに体調を崩してしまい、翌年1875(明治8)年2月、東京医学校病院に入院。
翌月の3月20日、肺炎にて死去。
享年38歳。
京都にいる八重へ知らせが届くのは、9月1日日曜日放送の第35回。
脚本を担当する山本むつみは、執筆するにつれ、川崎尚之助の人物像と生涯が、明確になりつつあるとのこと。
2年前の2011(平成23)年のNHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』で酷評された"ファンタジー大河"の描写に溺れることなく、当時の時代背景における川崎尚之助の心情を丹念に描いた脚本となることを信じて、最期まで見届けるのみ。
蛇足でスミマセンけど、
明治維新後の八重は、1871(明治4)年に、京都府顧問となっていた兄・山本覚馬を頼って上洛し、兄の元に出入りしていた新島襄(オダギリジョー)とは、1875(明治8)10月に婚約。
運命とはどのように流れるか、わからないもの。
好む好まざる関係なしに。
2013-01-21 |
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