八重の桜 あらすじ ネタバレ 第36回
9月8日日曜日放送。
1873(明治6)年以来、欧米諸外国との不平等条約改正の一環として、キリスト教は自由化されたものの、仏教徒一色に染まった京都の状況は変わらないまま。
それゆえ、八重(綾瀬はるか)と、聖書の教えを広める学校をつくることを目指す襄(オダギリジョー)が婚約したことで、女紅場での八重への風当たりは強まることなった。
追い討ちをかけるように、京都府知事の槇村正直(高嶋政宏)の差し金で、授業中の介入もあったことで、ついに八重は女紅場を離れることに。
やがて紆余曲折を経て、1875(明治8)年11月26日、大垣屋清八(松方弘樹)による仏教関係者への取り成しと、覚馬(西島秀俊)と襄と八重の尽力の甲斐あって、同志社英学校が開校された。
事を知った槇村が介入に入るものの、覚馬から西洋の良きものを採用することに寛容な姿勢と矛盾すると意見されたことと、覚馬の尽力で釈放された恩義もあって、黙認することとなり、以後、槇村と覚馬は袂を分かつことに。
一方、鹿児島では、西郷隆盛(吉川晃司)を頭目に私学校が開校。
1874(明治7)年の"佐賀の乱"以来、鹿児島は不平士族で膨れ上がっていた。
先の乱を主導した咎で梟首された江藤新平(山崎銀之丞)の二の舞を恐れて、従弟の大山弥助改め大山巌(反町隆史)は西郷を訪ねるが、西郷は見放すことはできないと、巌の思いを受け入れず。
この頃から西郷は、対ロシア戦を想定して、不平士族を温存する狙いがあったらしい、とのことを耳にしたことあるけど、実際はどうなんだろうか?
1876(明治9)年1月3日、デイヴィス邸にて、八重と襄は結婚した。
日本で初のプロテスタントの挙式とのこと。
これまで八重と所縁のあった人たちは、どのように祝福するんだろうなあ。
八重にすれば、西洋の影響に染まったとしても会津魂は失っていないはず。
2013-08-10 |
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