軍師官兵衛 キャスト 生田斗真
いよいよNHK大河ドラマ初出演か...。
初登場は、3月16日日曜日放送の第11回。
演じるは、キリシタン大名・高山右近。
いわゆる"ドラマチックな人生"は、生い立ちから始まった、ということかな?
高山氏とは、摂津国三島郡高山庄(現在・大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主。
出自は、秩父氏の一派の高山党の庶流とも、甲賀五十三家の一つとも、それぞれ言い伝えがあって...。
父・友照(飛騨守を自称)が当主の頃、当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀に従い、大和国宇陀郡の沢城(現在・奈良県宇陀市榛原)を居城に。
右近が友照の嫡男として誕生したのは、1552(天文21)年。
早くも1564(永禄7)年、12歳でキリスト教の洗礼。
背景としては、父・友照が奈良にて、琵琶法師だったイエズス会員・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受けたことで、自身から洗礼を受けた後、沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたたことから。
右近の洗礼名はユスト。
(父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリア)
しかし、三好氏は当主・長慶が、同年1564(永禄7)年に死去後、内紛などから急速に衰退。
高山氏の本来の所領のある摂津においても、豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の基盤を次第に強化。
そうした最中の1568(永禄11)年、織田信長(江口洋介)の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭(吹越満)が室町幕府第15代将軍に就任してから、状況は一変。
義昭は土着の領主の一つである入江氏を滅ぼした後、直臣である和田惟政を高槻城に置き、惟政と伊丹親興・池田勝正を加えた3人を、摂津の守護に任命(摂津三守護)。
高山父子は和田惟政に仕えることとなったが、領域の狭い摂津をさらに分割統治する体制が整わず、摂津は大きく混乱。
まず1571(元亀2)年、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重(田中哲司)と中川清秀の軍に敗れて討死(白井河原の戦い)、間もなくその村重が池田氏そのものを乗っとることに。
村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。
こうして摂津は、石山本願寺が領有する石山周辺(現在・大阪市域)を除き、村重の領有に。
惟政の死後、高槻城はその子・惟長が城主となったが、当時まだ17歳。
ゆえに、叔父の和田惟増が補佐役に。
しかし惟長は、何を血迷ったか、叔父を殺害。
以後、高山家が主だった相談役となったが、これを良く思わない和田家臣たちが、惟長に高山親子の暗殺を進言。
やがて、高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが...。
友照はこの一件を村重に相談、村重から「もしそうであるなら殺される前に殺すべきだ。自分は兵をもって援助する」と告げられ、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えられる。
そして、第一の運命の1573(元亀4)年3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出し。高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされたが、14、15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いに。
夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい、真っ暗闇になったが、右近は火の消える前に惟長が床の間の上にいるのを見ていた。
火が消えるとすぐさま床の間に突入、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせた。
しかし、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣たちの加勢で、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまった。
およそ助かりそうにない傷だったが、右近は奇跡的に回復。
以後、右近は一層キリスト教へ傾倒することに。
一方、惟長は家族や家臣たちと逃げ、輿に乗せられて和田家の生国・甲賀へ行ったが、同地で死亡。
事件後、高山父子は村重の支配下に。
村重はすでに信長から摂津一円の支配権を獲得。
ゆえに、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主に。
二人は間もなく高槻城の修築工事を施工、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を導入。
友照は50歳を過ぎて、高槻城主の地位を右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践。
この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けたとか。
父の生き方は、当然息子の右近に大きな影響を与えた。
第二の運命の1578(天正6)年、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に謀反。
村重の謀反を知った右近はこれを翻意させるため、妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら謀反の阻止に努めたが、失敗。
右近は村重と信長との狭間で懊悩、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めた。
神父は信長に降るのが正義であるか、よく祈って決断せよと助言。
高槻城は要衝の地であったため、信長はここでまず陥落を試みたが、右近が金や地位では動かないと判断。右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫。
城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める勢力で二分。
懊悩した右近はここにいたって城主を辞し、家族も捨てて紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭。
村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしなかったが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因に。
(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返り)
信長はこの功績を認め、右近は再び高槻城主としての地位を安堵の上、2万石から4万石に加増される異例の措置。
豊臣秀吉(竹中直人)からも信任の厚かった右近は、1585(天正13)年、播磨明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城が居城に。
しかし、間もなく第三の運命が...。
伴天連追放令(バテレン追放令)が秀吉によって施行。
それは、秀吉による九州平定後の1587年7月24日(天正15年6月19日)に筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において、秀吉が発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書...。
[バテレンとは、ポルトガル語で"神父"の意味の"padre"から由来。]
秀吉の側近の黒田官兵衛(岡田准一)が真っ先に棄教するなど、キリシタン大名には苦しい状況となる中、
右近は、個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは規制されていないことを理由に、自身の信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選択。
世間を驚かせた後しばらく、小西行長に庇護されて小豆島や肥後などに隠れ住むが、1588(天正16)年に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで1万5,000石の扶持。
1590(天正18)年の小田原征伐にも、建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍。
金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったとのことで。
また利家の嫡男・利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったらしく。
1609(慶長14)年、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当。
そして、最後となる第四の運命、
1614(慶長19)年、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康(寺尾聰)によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去。
長崎から家族とともに追放された内藤如安らと、マニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着。
イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近は、マニラでスペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため、老齢となった右近はすぐに発病。
翌年の1月8日(1615年2月4日)に永眠。
享年64歳。
葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われたという。
右近の死後、家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」が存在。
この波瀾万丈な生涯は、今年2014(平成26)年3月に出版の高山右近四百年遠忌記念論文集『高山右近 キリシタン大名への新視点』(中西裕樹 / 宮帯出版社)で、改めて振り返ってみる必要ありそうだ。
ただ、このドラマでの出演は、九州平定後の黒田家に比重を置く関係から、9月7日日曜日放送の第36回まで。
官兵衛とのどのような永遠の別れとして魅せてくれることになるのかが、一番気になるところ。
生田斗真の初めての時代劇といえば、2011(平成23)年12月より公開の映画『源氏物語 千年の謎』。
かの『源氏物語』の作者・紫式部と時の権力者・藤原道長が男女関係にあったという設定の下、平安時代の式部の物語と、式部の書いた光源氏の物語が同時進行しての交錯と展開だった。
生田斗真演じるは光源氏。
イメージとは少し違うものの、時に情熱的で、時に控えめな、出で立ちだった。
一方、紫式部を演じるのは中谷美紀。
この度のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』で演じるキリシタン大名・高山右近も、本質的には光源氏と類似しているところ、いくらかあるかもしれない。
生田斗真曰く、ドラマでは首に大きな傷をつけた状態で登場するとのことで、「キリシタンとして争いのない国をつくりたいという反面、武将として人を殺さなければいけない、という葛藤も出していきたい」と。
そして蛇足ながら、中谷美紀演じる黒田光とは、洗礼を受けるという共通点といい、何らかの形で関わり合うこととなるのかも、気になるところ。
2014-01-29 |
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