真田丸 あらすじ ネタバレ 第4回
「挑戦」
1月31日日曜日に放送。
1582(天正10)年3月10日、昌幸(草刈正雄)・信繁(堺雅人)親子は、織田信長(吉田鋼太郎)との謁見のため、諏訪・法華寺へ出立した。
到着間もない昌幸は、1573(元亀3)年12月22日の"三方ヶ原の戦い"にて、徳川家康(内野聖陽)を撃退したことを讃えた亡き先代・武田信玄(林邦史朗)から"武藤喜兵衛"の名を授けられた当時のいきさつを、信繁に伝えて...。
それから、室賀正武(西村雅彦)と対面。 北条家への密書の件を詰問されるも、昌幸はうそぶくなり、逆に襲撃をけしかけられた件を尋ねて切り返した。
勢いに乗った昌幸は、密書の件に関して、北条家を油断させるための計略の一環であったことを、信長の嫡男・信忠(玉置玲央)に納得させる。
ほぼ同じ頃、小山田茂誠(高木渉)と妻・松(木村佳乃)の潜めている空き家を信幸(大泉洋)が突き止め、問い詰めていた。
この時傍に居合わせたきり(長澤まさみ)は、信繁の尽力によるものと知るなり、胸を熱く焦がす。
信幸は、内心いまだ釈然としないものの、弟・信繁の想いを受け入れるかのように、父・昌幸が戻るまでには引き払うよう茂誠と松に命じて、その場を去っていった。
信長との謁見を前に、昌幸と信繁の父子は、同行した家臣・矢沢三十郎頼幸(迫田孝也)を交えて一室で話し合い。
そこへ、離れた一室からの、信長が重臣・明智光秀(岩下尚史)を折檻する声が...。
三人は言いようのない恐怖を実感...。
明くる日になり、まず徳川家康(内野聖陽)との対面。 ほどなく入った信忠を前に、前日の密書をめぐるやりとりは、自身の身を信長に高く売るための細工なのではと鎌掛け。
しかし、昌幸は動じなかった。
そこへ信長の登場。 誰もが存在感に圧倒される中、信長は昌幸の知略軍略ぶりを秘かに見抜いていた。
家康も、昌幸がかの"武藤喜兵衛"であることも、すでに見抜いており...。
やがて、織田家武将・滝川一益(段田安則)が上野一国はじめ小県、佐久を治めることに決定。 昌幸が小県の長とする旨が伝えられる。
先に織田家に取り入ろうとした正武は、内心嫉妬と焦りを強めて...。
5月半ばとなり、沼田城主の叔父・矢沢頼綱(綾田俊樹)と話し合いを経て、信繁の陰ながらの計らいあって、信長への松の人質差し出しと出立に紛れての茂誠同行の手筈が整えられた。
三人は出立へ。
安土城到着ほどなく二人と別れた信繁は、6月早々よりセミナリオを見学。 真田の里にももたらすことをできないか、考え始める。
そこへ、京からの思いがけない事変を伝える使者が、信繁の元へ...。
セミナリヨか...。
イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関(小神学校)のこと。
ことの始まりは、1579(天正7)年、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父の布教状況視察から。
日本における布教の責任者であったフランシスコ・カブラル神父の日本人に対する偏見の強さゆえ、日本人司祭・修道士の育成を全く行っていなかった状況の改善からの、日本人の司祭・修道士の育成目的がきっかけで...。
ほどなく、かねてより快く思っていなかった仏教徒への対抗手段からキリスト教を保護する信長の元を訪れ、当時の新都市安土に土地を願い、すぐさま城の隣のよい土地が与えられたという。
完成は、翌年1580(天正8)年。
特に、1868(明治元)年の明治維新以降、日本がとりいれた西洋式教育システムの先駆けにもなったという。
振り返ってみたくなった。
【日本の名城 デラックス 安土城 プラモデル】に見られる、それぞれの配置はもちろん...。
2008(平成20)年10月発売の『ザビエルからはじまった日本の教会の歴史』(結城了悟/女子パウロ会)に記されている、本当の信教の自由、良心の自由を確立するための教会の歴史に目を通しながら...。
そして、現在の滋賀県近江八幡市安土町上豊浦の『飯魚』の手掛ける伝統の本仕込みの「無形文化財」となった滋賀県名産【鮒ずし】のセットも、じっくりと味わってみたくなった。
前年2015(平成27)年2月13日金曜日放送のNHK『キッチンが走る』を観て、50年以上前の珍味と変わらないと懐かしがってくれて祖父母が、即刻購入して味わうなり、かなり満足してくれたという。
永遠に続いてほしいなあ。
2015-12-25 |
共通テーマ:日記・雑感 |
nice!(0) |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
編集
コメント 0